・・・そうして、墨をよこさなければ帰りに待伏せすると威かされ、小刀をくれないとしでるぞと云っては脅かされた。その頃の硬派の首領株の一人はその後人力車夫になったと聞いたが、それからどうなったか一度も巡り合わずそれきり消息を知ることが出来ない。 ・・・ 寺田寅彦 「鷹を貰い損なった話」
・・・この半島も向かいの小島もゴシック建築のようにとがり立った岩山である。草一本の緑も見えないようである。やや平坦なほうの内地は一面に暑そうな靄のようなものが立ちこめて、その奥に波のように起伏した砂漠があるらしい。この気味のわるい靄の中からいろい・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・たとえば妙な紅炎が変にとがった太陽の縁に突出しているところなどは「離れ小島の椰子の木」とでも言いたかった。 科学の通俗化という事の奨励されるのは誠に結構な事であるが、こういうふうに堕落してまで通俗化されなければならないだろうかと思ってみ・・・ 寺田寅彦 「断水の日」
・・・池のほうへでも行ってみましょうと言う。それもそうだとそっちへ向く。 崖をおりかかると下から大学生が二三人、黄色い声でアリストートルがどうしたとかいうような事を議論しながら上って来る。池の小島の東屋に、三十ぐらいのめがねをかけた品のいい細・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・象牙のブックナイフはその後先端が少し欠けたのを、自分が小刀で削って形を直してあげたこともあった。時代をつけると言ってしょっちゅう頬や鼻へこすりつけるので脂が滲透して鼈甲色になっていた。書斎の壁にはなんとかいう黄檗の坊さんの書の半折が掛けてあ・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・そういう人たちにそういう研究を勧めたいと思うのが、私のこの一編を書くに至った動機であったのである。正統的教養の楽園に安住する専門的物理学者の目から見れば、あまりに空想をたくましゅうした叙述が多かったように見えるかもしれない。 しかしこれ・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
・・・つまり正当なる社会の偽善を憎む精神の変調が、幾多の無理な訓練修養の結果によって、かかる不正暗黒の方面に一条の血路を開いて、茲に僅なる満足を得ようとしたものと見て差支ない。あるいはまたあまりに枯淡なる典型に陥り過ぎてかえって真情の潤いに乏しく・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・明治四十一年に帰朝した当時浮世絵を鑑賞する人はなお稀であった。小島烏水氏はたしか米国におられたので、日本では宮武外骨氏を以てこの道の先知者となすべきであろう。東京市中の古本屋が聯合して即売会を開催したのも、たしか、明治四十二、三年の頃からで・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・読みさした所に象牙を薄く削った紙小刀が挟んである。巻に余って長く外へ食み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖で触ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気てはたまらん」と眉をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂の先を握って見て・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・一旦木村博士を賞揚するならば、木村博士の功績に応じて、他の学者もまた適当の名誉を荷うのが正当であるのに、他の学者は木村博士の表彰前と同じ暗黒な平面に取り残されて、ただ一の木村博士のみが、今日まで学者間に維持せられた比較的位地を飛び離れて、衆・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
出典:青空文庫