・・・この作者が田村という姓で小説を書いていた頃の写真の面影は、ふっさりと大きいひさし髪の下に、当時の日本の婦人としては感覚的なある強さの感じられる表情をうかべて、遠い大正年代初頭の記憶に刻まれている。当時この作者は、恋愛のいきさつの間で、激情的・・・ 宮本百合子 「十月の文芸時評」
・・・ ところが、この年の初頭に一部の指導的な学者・文筆家が自由を失い、また作家のある者が作品発表の場面を封じられた事実は、文学の本質というよりも一層直接な形で作家・評論家の社会的動向に影響した。顧れば昭和九年「不安の文学」がいわれた時代、日・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・第一、初等中学三年という新しくふえた生徒のために学校が足りない、教師がない。教科書さえそろわない。しかも一応六年を終った年ごろで親の役に立つようになった子供は買出しの手つだいにも行ったりして困難な日々のやりくりにまきこまれ時間がない。戦災者・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・ どうもはっきりしないまま、その日は夕方から母に連れられて、俥に永いこと乗って古田中さんのお家へ上った。芝の清正公のそばの二階のあるお家であった。 初冬の時節ででもあったのではなかったろうか。二階のお座敷は賑やかで、夫人のほかに、若・・・ 宮本百合子 「白藤」
・・・多くの黎明と夕暮が過ぎた。初冬が来た。昼間と夜とがいきなり続くほど暮れ方が短くなった。 そういう一つの遽しい夕方、雄鳩は独り家に入った。人気なく、部屋への障子が開け放されている。彼は飢を感じた。麦のある戸棚の方へ飛び立った時、雄鳩は再び・・・ 宮本百合子 「白い翼」
・・・美男の良人につかまって数番の初等トウダンスと両脚を床の上で一直線に展くことをおそわった時 ターニャ・イワノヴナは自分の姙娠したことを知った。踊りての良人は不機嫌に「僕あ赤坊なんぞいらないよ」と云った。ターニャ・イワノヴナは 人工流産・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
文学の分野においても、本年の初頭から民衆と知識階級との社会関係の再吟味がとりあげられて来ている。しかし、そのとりあげられかたは一種独特な色調を帯びていて、例えば、『文学界』の同人達によって喧しく提案された文壇否定、従来の意・・・ 宮本百合子 「全体主義への吟味」
・・・ おかぼの穂がみのり、背高いキビが野趣にみちて色づき初冬に近づいたこの頃、大理石の鴎外はべつのかぶりものをもった。それはアンペラである。丁寧に、繩の結びめも柔かくアンペラで頭部をかくまわれた。雪と霜とで傷められるのに忍びないのであろう。・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ゲーテは十八世紀末から十九世紀の初頭にかけてアポロと云われたそうだけれども、ベートーヴェンの伝記をみていたら、同時代人としていろんな芸術家の写真がのこっていた。シューベルトとゲーテとの写真がそばにあって、自然見くらべられた。シューベルトの表・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・後年、日本の女詩人与謝野晶子の健やかな双脚をして思わずもすくませたりという凱旋門をめぐる恐ろしい自動車の疾駆は未だ見えず、二頭びきの乗合馬車がカツカツと二十世紀初頭の街路を通っている。 書簡註。ランガム・ホテル全景。第・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
出典:青空文庫