・・・――しかし、貴方がたは、そんな話をお聞きなすっても、格別面白くもございますまい。」「可哀そうに、これでも少しは信心気のある男なんだぜ。いよいよ運が授かるとなれば、明日にも――」「信心気でございますかな。商売気でございますかな。」・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・けれどもそれが私たちには面白くってならなかったのです。足の裏をくすむるように砂が掘れて足がどんどん深く埋まってゆくのがこの上なく面白かったのです。三人は手をつないだまま少しずつ深い方にはいってゆきました。沖の方を向いて立っていると、膝の所で・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・劫初以来人の足跡つかぬ白雲落日の山、千古斧入らぬ蓊鬱の大森林、広漠としてロシアの田園を偲ばしむる大原野、魚族群って白く泡立つ無限の海、ああこの大陸的な未開の天地は、いかに雄心勃々たる天下の自由児を動かしたであろう。彼らは皆その住み慣れた祖先・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ 地誌を按ずるに、摩耶山は武庫郡六甲山の西南に当りて、雲白く聳えたる峰の名なり。山の蔭に滝谷ありて、布引の滝の源というも風情なるかな。上るに三条の路あり。一はその布引より、一は都賀野村上野より、他は篠原よりす。峰の形峻厳崎嶇たりとぞ。し・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・しなやかに光沢のある鬢の毛につつまれた耳たぼ、豊かな頬の白く鮮かな、顎のくくしめの愛らしさ、頸のあたり如何にも清げなる、藤色の半襟や花染の襷や、それらが悉く優美に眼にとまった。そうなると恐ろしいもので、物を云うにも思い切った言は云えなくなる・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・中にはまた、手捜りで指の上に書いたと見え、指の痕が白く抜けてるのもある。古今詩人文人の藁本の今に残存するものは数多くあるが、これほど文人の悲痛なる芸術的の悩みを味わわせるものはない。 が、悲惨は作者が自ら筆を持つ事が出来なくなったという・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・それを見た時女の顔は火のように赤くなったり、灰のように白くなったりした。店の主人は子供に物を言って聞かせるように、引金や、弾丸を込める所や、筒や、照尺を一々見せて、射撃の為方を教えた。弾丸を込める所は、一度射撃するたびに、おもちゃのように、・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 男は頭の髪が半分白くなりました。鳥も年をとってしまいました。男は、鳥の焼き画を描くことや、象眼をすることが上手でありました。終日、二階の一間で仕事をしていました。その仕事場の台の前に、一羽の翼の長い鳥がじっとして立っています。ちょうど・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・外はクワッと目映しいほどよい天気だが、日蔭になった町の向うの庇には、霜が薄りと白く置いて、身が引緊るような秋の朝だ。 私が階子の踏子に一足降りかけた時、ちょうど下から焚落しの入った十能を持って女が上ってきた。二十七八の色の青い小作りの中・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ ところが、その時は冬で、地面の上には二三日前に降った雪が、まだ方々に白く残っているというような時でしたから、爺さんはひどく困ったような顔をしました。この冬の真最中に梨の実を取って来いと言われるのは、大江山の鬼の酢味噌が食べたいと言われ・・・ 小山内薫 「梨の実」
出典:青空文庫