・・・ 洋一は父の言葉を聞くと、我知らず襖一つ向うの、病室の動静に耳を澄ませた。そこではお律がいつもに似合わず、時々ながら苦しそうな唸り声を洩らしているらしかった。「お母さんも今日は楽じゃないな。」 独り言のような洋一の言葉は、一瞬間・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・じっとその話に聞き入っていた私は、子爵が韓国京城から帰った時、万一三浦はもう物故していたのではないかと思って、我知らず不安の眼を相手の顔に注がずにはいられなかった。すると子爵は早くもその不安を覚ったと見えて、徐に頭を振りながら、「しかし・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 大空には、あたかもこの海の沖を通って、有磯海から親不知の浜を、五智の如来へ詣ずるという、泳ぐのに半身を波の上に顕して、列を造って行くとか聞く、海豚の群が、毒気を吐掛けたような入道雲の低いのが、むくむくと推並んで、動くともなしに、見てい・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・一列に並んだように思う…… と莞爾していった、お雪さんの言が、逆だから、(お遁げ、危と、いうように聞えて、その白い菩薩の列の、一番框へ近いのに――導かれるように、自分の頭と足が摺って出ると、我知らず声を立てて、わッと泣きながら遁出し・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・自分は横川天神川の増水如何を見て来ようとわれ知らず身を起した。出掛けしなに妻や子供たちにも、いざという時の準備を命じた。それも準備の必要を考えたよりは、彼らに手仕事を授けて、いたずらに懊悩することを軽めようと思った方が多かった。 干潮の・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・民さんこれ野菊がと僕は吾知らず足を留めたけれど、民子は聞えないのかさっさと先へゆく。僕は一寸脇へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。 民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。「民さんはそ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・圏套姦婦の計を逃れ難し 拘囚未だ侠夫の名を損ぜず 対牛楼上無状を嗟す 司馬浜前に不平を洩らす 豈翔だ路傍狗鼠を誅するのみならん 他年東海長鯨を掣す 船虫閉花羞月好手姿 巧計人を賺いて人知らず 張婦李妻定所無し 西眠東食是れ生・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・が、一切の前提を破壊してしまったならドコまで行っても思索は極まりなく、結局は出口のない八幡知らずへ踏込んだと同じく、一つ処をドウドウ廻りするより外はなくなる。それでは阿波の鳴門の渦に巻込まれて底へ底へと沈むようなもんで、頭の疲れや苦痛に堪え・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・ それから、四五日も看病してやったろうか、いよいよ宿や医者への支払いにさし迫られたので、たまりかねて婆さんを背負って、綱不知から田辺へわたり、そこから船で大阪へ舞い戻るまで、随分おれは情けない目を見た。みなお前のせいだ。 ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・が執こく紙と鉛筆で崖路の地図を書いて教えたことや、その男の頑なに拒んでいる態度にもかかわらず、彼にも自分と同じような欲望があるにちがいないとなぜか固く信じたことや――そんなことを思い出しながら彼の眼は不知不識、もしやという期待で白い人影をそ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
出典:青空文庫