・・・わたくしはいよいよ前後の思慮なく、唯酔の廻って来るのを知るばかりである。二人の間に忽ち人情本の場面がそのまま演じ出されるに至ったのも、怪しむには当らない。 あくる日、町の角々に雪達磨ができ、掃寄せられた雪が山をなしたが、間もなく、その雪・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・けれども学士会院がその発見者に比較的の位置を与える工夫を講じないで、徒らに表彰の儀式を祭典の如く見せしむるため被賞者に絶対の優越権を与えるかの如き挙に出でたのは、思慮の周密と弁別の細緻を標榜する学者の所置としては、余の提供にかかる不公平の非・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
・・・余は法学士である、刻下の事件をありのままに見て常識で捌いて行くよりほかに思慮を廻らすのは能わざるよりもむしろ好まざるところである。幽霊だ、祟だ、因縁だなどと雲を攫むような事を考えるのは一番嫌である。が津田君の頭脳には少々恐れ入っている。その・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・先生は新刊第三巻の冒頭にある緒論をとくに思慮ある日本人に見てもらいたいといわれる。先生から同書の寄贈を受ける日それを一読して満足な批評を書き得るならば、そうして先生の著書を天下に紹介する事が出来得るならば余の幸である。先生の意は、学位を辞退・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・けれどお七の心の中には賢もなく愚もなく善もなく悪もなく人間もなく世間もなく天地万象もなく、乃至思慮も分別もなくなって居る。ある者はただ一人の、神のような恋人とそれに附随して居る火のような恋とばかりなのである。もし世の中に或る者が存して居ると・・・ 正岡子規 「恋」
・・・ いい考えは、むずかしい本をよんでいるときに浮ぶのではなくて、真面目にものをうけとる心さえあればいい音楽をきいていて、十分深い思慮を扶けられるものであり、ユーモアは、社会批判であることを知りたいと思います。 そして、私たちの考える能・・・ 宮本百合子 「朝の話」
・・・ 栄蔵は、自分と同年輩の男に対する様な気持で、何事も、突発的な病的になりやすい十七八の達に対するので、何かにつけて思慮が足りないとか、無駄な事をして居るとか思う様な事が多かった。「まあ飛んだ事呉(れた。 でも、まさか何ん・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 少女小説に筆を染める人々は丁度大学の教授よりも、小学校の教師の方が責任が重いと同じ様に、大した作をする人々よりも一層の注意と責任と思慮が必要なんです。 そして文筆も必して商売的でなくみっちりと重味のある考え深いしまった調子で書かな・・・ 宮本百合子 「現今の少女小説について」
・・・光尚も思慮ある大名ではあったが、まだ物馴れぬときのことで、弥一右衛門や嫡子権兵衛と懇意でないために、思いやりがなく、自分の手元に使って馴染みのある市太夫がために加増になるというところに目をつけて、外記の言を用いたのである。 十八人の侍が・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 三右衛門は思慮の遑もなく跡を追った。中の口まで出たが、もう相手の行方が知れない。痛手を負った老人の足は、壮年の癖者に及ばなかったのである。 三右衛門は灼けるような痛を頭と手とに覚えて、眩暈が萌して来た。それでも自分で自分を励まして・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫