・・・最後の一発としてここにこれを記すのみ。 書家の説にいわく、楷書は字の骨にして草書は肉なり、まず骨を作りて後に肉を附くるを順序とす、習字は真より草に入るべしとて、かの小学校の掛図などに楷書を用いたるも、この趣意ならん。一応もっとも至極の説・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
・・・明治三年庚午一一月二七夜、中津留主居町の旧宅敗窓の下に記す福沢諭吉 福沢諭吉 「中津留別の書」
・・・都病院にて長谷川辰之助長谷川静子殿長谷川柳子殿 遺族善後策これは遺言ではなけれど余死したる跡にて家族の者差当り自分の処分に迷うべし仍て余の意見を左に記す一 玄太郎せつの両人は即時学校を・・・ 二葉亭四迷 「遺言状・遺族善後策」
・・・その例、嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮れし一行の雁や端山に月を印す朝顔や手拭の端の藍をかこつ水かれ/″\蓼かあらぬか蕎麦か否か柳散り清水涸れ石ところ/″\我をいとふ隣家寒夜に鍋をならす霜百里舟中に我月を領す・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・余はこの紙に対して余の感情をいつはり記すこと能はず。故に余敢ていつはらずして此事を記しぬ。嗚呼。神如何なれば人の子を試み給ふや。如何なれば血熱し易き余を捕へ給ひて苦き盃を与へ給ひしや。如何なれば常に御前に跪き祈りし夫れを顧み給はざるや。余の・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・ 私は此の歓喜を永く記憶するために、この短かい一篇を記すと同時に、親切な、筆を以て、細かに、「生い立ちの記」を年毎に月毎に日毎に書き記して置きたい心がまえである。 人中に居ると見えて見えない。 ごたついた中になんか入る柄でないの・・・ 宮本百合子 「暁光」
・・・ 四月二十八日午前二時 我が六畳の書斎にて記す。 此の日は、自分に、一生の運命の或決定的な転向を暗示した時である。 人生観の裡に含まれた、多くの曖昧さ、其等は皆、所謂よい家庭の習俗と、甘い、方便に安んじ得る・・・ 宮本百合子 「日記・書簡」
・・・将来この時代を記すにあたって、アメリカが反動、暴政、圧迫によってこの闘争を弾圧したということになれば、これは恥ずべきことになるだろう」「もしアメリカ国民が、他の国家の人民にたいするスポークスマンの役目を軍人に許すならば、それは現代の大悲劇と・・・ 宮本百合子 「「人間関係方面の成果」」
・・・ 一九一八年。記すべきほどのことなし。ただかなり真面目に勉強し続けていたので、肚の中に何かが漸く発育し始めたような気がする。 一九一九年。「津村教授」を帝国文学に発表。一行の批評も受けず、黙殺される。本田華子と結婚。 一九二〇年・・・ 宮本百合子 「山本有三氏の境地」
・・・男をば単に男と記す。その人いわゆる男盛りと云う年になりたれば。貴夫人。なんだかもう百年くらいお目に懸からないようでございますね。男。ええ。そんなに御疎遠になったのを残念に思うことは、わたくしの方が一番ひどいのです。貴夫人。でも只・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
出典:青空文庫