・・・原因は、男の強大な主我主義と肉情によって、アンネットは自分が彼の愛人として人格的に陥りかかっている屈辱の深淵を見透し、自分の健康な自尊心をとりかえさずにいられなくなったのであった。――アンネットが確実に彼のものとなった後、彼は、アンネットの・・・ 宮本百合子 「アンネット」
・・・ 静かに太陽の健な呼吸を聞き、月の深遠な光明に身をひたして居ると口にまでつくせぬ、複雑な美に打たれるのである。 日々を、心ならずもいやな事、心を悩ます事の多い中で暮して居るのであるから、どこの廃市にも、満ち満ちて居る自然美になつかし・・・ 宮本百合子 「雨滴」
・・・そう云われているところに、きょうの日本の深淵がある。一九五〇年の十月、日本全国で二十代の男女労働者の大量が、「政治的思想的立場を理由にして、つまり国の憲法と労働関係法規とに違反して首切られました」、二十代の全国の学生は、同じく「政治的思想的・・・ 宮本百合子 「「下じき」の問題」
・・・ 文学にあらわれたこの深淵は一般に微妙な時代的翳をなげていて、現代小説では人間の社会的な生活の物語と所謂生態描写との本質上の区別がぼやかされて来ているし歴史小説の分野では、時代と環境との客観的意義の評価を見直すことでは前進しつつ、そこに・・・ 宮本百合子 「昭和十五年度の文学様相」
・・・ 肇に対して自分の知識を深遠なものにし、自分の思想と云うものを尊いものにして置きたい千世子はあんまり不用心に知って居るだけの事は話さない。 お互に或る無形の鏡を持って照し合わせ様として居るのを又お互に知って居た。 時々亢奮し・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・制度、社会的組織を創る人間の心のもう一歩奥にあるものを本能と呼ぶなら、その本能を発動させる源、深遠な自然力とも云うべきものが、見えない底の底でこの問題に働きかけているのではあるまいかと思われます。従って、人生を素直に感じ人の力も自然の力も素・・・ 宮本百合子 「「母の膝の上に」(紹介並短評)」
・・・ だが、この陰翳に富んだ、逆説的な分子のこもった会話は、当時のゴーリキイが民衆、学生、デレンコフや彼自身の関係に対して抱いていた複雑な感情の深淵を何と微妙な閃光で我々に啓いて見せることであろう。 これは、ゴーリキイが、セミョーノフの・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・材木が運び始められる頃から、誰が建築をするのだろうと云って、ひどく気にして問い合せると、深淵さんだと云う。深淵と云う人は大きい官員にはない。実業家にもまだ聞かない。どんな身の上の人だろうと疑っている。そのうち誰やらがどこからか聞き出して来て・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・――そこにはいのちの美しさが、波の立たない底知れぬ深淵のように、静かに凝止している。それは表に現われた優しさの底に隠れる無限の力強さである。人間のあらゆる尊さ美しさは、間髪をいれず人間の肉体によって現わされ、直ちに逆に、人間の肉体を人間以上・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
・・・それはただ自分の智慧が臆測の光を投げ込むに過ぎない底知れぬ深淵である。しかしその深淵のすみからすみまで行きわたっているある大いなる力と智慧との存在する事を、そうしてその力と智慧とが敏感な心に一瞬の光を投げることを否むわけに行かない。我々は不・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫