・・・何気なくふと暖簾の向うを通る女の足を見たりしているが、汁が来ると、顔を突っ込むようにしてわき眼もふらずに真剣に啜るのである。 喫茶店や料理店の軽薄なハイカラさとちがうこのようなしみじみとした、落着いた、ややこしい情緒をみると、私は現代の・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・「ところが、前の晩徹夜したので、それどころじゃない。寝床にはいるなり、前後不覚に寝てしまったんだ」 十日ほどたって、また行くと、しょげていた。「何だか元気がないね」「新券になってから、煙草が買えないんだ」「旧券のうちに、・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・今、ちびちび売って行けば、結局五万円の新券がはいるわけだな」「五十銭やすく売れば羽根が生えて売れるよ。四円五十銭としても、四万五千円だからな」「市電の回数券とは巧いこと考えよったな。僕は京都へ行って、手当り次第に古本を買い占めようと・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・一生苦労しつづけて死んだ細君の代りに、せめてもに娘にこれが父親の自分が遺すことの出来る唯一の遺産だといって見せた真剣な対局であった。なににも代えがたい大事の一局であった。その対局に坂田は敗れたのだ。相手の木村八段にまるで赤子の手をねじるよう・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・――こうした悪虐な罪人がなお幾年かを続けねばならぬ囚人生活の中からただ今先生のために真剣な筆を走らしていますことは、何かしら深い因縁のあることと思います。ぶしつけな不遜な私の態度を御赦しくださいませ――なおもなおも深く身を焦さねばならぬ煩悩・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ といった真剣さがあった。「しかしどうして原口君や馬越君の場合は、問題が別なんかね? もともとそんな性質の会では……」「いや、それは僕は、作家という立場からして、この会の成立ちとか成行きとかいうことには関係しないけれど、しかしたんに・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・だから吉田の頭には地震とか火事とか一生に一度遭うか二度遭うかというようなものまでが真剣に写っているのだった。また吉田がこの状態を続けてゆくというのには絶えない努力感の緊張が必要であって、もしその綱渡りのような努力になにか不安の影が射せばたち・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・位でお止になるところが、お正は本気で聞いている、大友は無論真剣に話している。「それほどまでに二人が艱難辛苦してやッと結婚して、一緒になったかと思うと間もなく、ポカンと僕を捨てて逃げ出して了ったのです」「まア痛いこと! それで貴下はど・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・また問いこそその討究を真剣ならしめる推進機である。いかに問うかということ、その問い方の大いさ、深さ、強さ、細かさがやがてその解答のそれらを決定する条件である。故に倫理学の書をまだ一ページもひるがえさぬ先きに、倫理的な問いが研究者の胸裡にわだ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 平生、内地米のありがたさには気づかずに食っていたのだが『食』は、『衣』『住』と共に、人間が生きて行く上に最も重大なことなので、まずいとなると、それに対する対策は、なか/\真剣でいくらも智恵が働きそうに思われる。 一週間ばかり外米混・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
出典:青空文庫