・・・ 唯今、七彩五色の花御堂に香水を奉仕した、この三十歳の、竜女の、深甚微妙なる聴問には弱った。要品を読誦する程度の智識では、説教も済度も覚束ない。「いずれ、それは……その、如是我聞という処ですがね。と時に、見附を出て、美佐古はいかがで・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ かねて信心する養安寺村の蛇王権現にお詣りをして、帰りに北の幸谷なるお千代の里へ廻り、晩くなれば里に一宿してくるというに、お千代の計らいがあるのである。 その日は朝も早めに起き、二人して朝の事一通りを片づけ、互いに髪を結い合う。おと・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・今と違って遊山半分でもマジメな信心気も相応にあったから、必ず先ず御手洗で手を清めてから参詣するのが作法であった。随って手洗い所が一番群集するので、喜兵衛は思附いて浅草の観音を初め深川の不動や神田の明神や柳島の妙見や、その頃流行った諸方の神仏・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・沼南は当時の政界の新人の領袖として名声藉甚し、キリスト教界の名士としてもまた儕輩に推されていたゆえ、主としてキリスト教側から起された目覚めた女の運動には沼南夫人も加わって、夫君を背景としての勢力はオサオサ婦人界を圧していた。 丁度巌本善・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・何の術ぞ 工夫ただ英雄を攪るに在り 『八犬伝』を読むの詩 補 姥雪与四郎・音音乱山何れの処か残燐を吊す 乞ふ死是れ生真なりがたし 薄命紅顔の双寡婦 奇縁白髪の両新人 洞房の華燭前夢を温め 仙窟の煙霞老・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・井侯の薨去当時、井侯の逸聞が伝えられるに方って、文壇の或る新人は井侯が団十郎を愛して常にお伴につれて歩いたというを慊らず思い、団十郎が井侯をお伴にしないまでも切めては対等に交際して侯伯のお伴を栄としない見識があって欲しかったといった。今日の・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・これ故に、今日以後、真の作家たらんとする者は、いずれよりも解放された新人でなければならない。特に、今日の資本主義に反抗して、芸術を本来の地位に帰す戦士でなければなりません。かゝる芸術の受難時代が、いつまでつゞくか分りませんが、考えようによっ・・・ 小川未明 「作家としての問題」
・・・「変わった薬屋さんだ。信心するので、神さまが薬をおめぐみくだされたのかもしれない。」 じいさんは、まだどこかに手風琴の音がきこえるような気がして、耳をすましていました。 小川未明 「手風琴」
・・・ここへ来れば、たいていの信心事はこと足りる。ないのはキリスト教と天理教だけである。どこにどれがあるのか、何を拝んだら、何に効くのか、われわれにはわからない。 しかし、彼女たちは知っている。彼女たち――すなわち、此の界隈で働く女たち、丸髷・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ところが、顧みて日本の文壇を考えると、今なお無気力なオルソドックスが最高権威を持っていて、老大家は旧式の定跡から一歩も出ず、新人もまたこそこそとこの定跡に追従しているのである。 定跡へのアンチテエゼは現在の日本の文壇では殆んど皆無にひと・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫