・・・盆栽の花に水を遣ったり、布団の塵を掃ったり、扉の撮の真鍮を磨いたりする内に、つい日は経ってしもうた。その間、頭の中には、まあ、どんな物があったろう。夢のような何とも知れぬ苦痛の感じが、車の輪の廻るように、頭の中に動いていた。あの何とも言えぬ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・余幼童之時春色清和の日には必ず友どちとこの堤上にのぼりて遊び候水には上下の船あり堤には往来の客ありその中には田舎娘の浪花に奉公してかしこく浪花の時勢粧に倣い髪かたちも妓家の風情をまなび○伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ故郷の兄弟を恥じい・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・車室の中は、青い天蚕絨を張った腰掛けが、まるでがら明きで、向うの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光っているのでした。 すぐ前の席に、ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、窓から頭を出して外を見ているのに・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・襟に真鍮の番号をつけられていたそのとおり、墓標にも第一に目につくように黒々と番号が記されてある。あたりには花も樹もない。何とも云えぬ悲しい清潔な白い十字の林を、フランスの芳醇な秋の空気がつつんでいるのである。 自動車はスピードをもって山・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・首がガクつくのをガーゼで巻いてある真鍮の呼鈴、一緒に、アスパラガスに似た鉢植が緑の細かい葉をふっさり垂れていた。 日本でも猫が葉っぱをたべたりするのかしらん。―― 床に黄色い透明な液体が底にたまった大コップがある。胆汁だ。斑猫はその・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・ 第一に恋愛というものを、私は社会的階級的全生活の一部分として理解しているが、決して恋が命とは考えていません。心中する芝居を見るとカンシャクをおこす女であります。 又、恋愛はひどく、その人の程度=イデオロギー的にも、性格的にも=を示・・・ 宮本百合子 「ゴルフ・パンツははいていまい」
・・・“905”日本女の受けとった外套防寒靴預番号の真鍮札。 外にあんな雨と暗い道があるとは思われぬ。 絶えず人が登り降りしている大階段を日本女は二階へあがって行った。 とっつきが国防科学協会の研究室だ。壁にかかってる毒ガス演習の・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ どちらも一階の往来に面した処にあった。真鍮の太い手摺にぴったりよって立ち、私は、ぼんやり空想の世界に溶け込む。 ああ、あの高貴そうな金唐草の頸長瓶に湛えられている、とろりとした金色の液を見よ。揺れると音が立ち、日が直射すると虹さえ・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・然し、その女のひとは、電車の隅々までよくとおる声を低めず、進駐軍のために日本語を教えていること、自分がアメリカに生れたというので大変よろこんで親切にしてくれること、チョコレートやお砂糖をどっさりくれることを話した。「そりゃ甘いチョコレートで・・・ 宮本百合子 「その源」
・・・しかし細かにこの男の心中に立ち入ってみると、自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫