発端 肥後の細川家の家中に、田岡甚太夫と云う侍がいた。これは以前日向の伊藤家の浪人であったが、当時細川家の番頭に陞っていた内藤三左衛門の推薦で、新知百五十石に召し出されたのであった。 ところが寛文七年の・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・いつか顔を擡げた相手は、細々と冷たい眼を開きながら、眼鏡越しに彼女を見つめている、――それがなおさらお蓮には、すべてが一場の悪夢のような、気味の悪い心地を起させるのだった。「私はもとよりどうなっても、かまわない体でございますが、万一路頭・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・なお喜左衛門の忠直なるに感じ給い、御帰城の後は新地百石に御召し出しの上、組外れに御差加えに相成り、御鷹部屋御用掛に被成給いしとぞ。「その後富士司の御鷹は柳瀬清八の掛りとなりしに、一時病み鳥となりしことあり。ある日上様清八を召され、富士司・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・「……世の中かきくらして晴るる心地なく侍り。……さても三人一つ島に流されけるに、……などや御身一人残り止まり給うらんと、……都には草のゆかりも枯れはてて、……当時は奈良の伯母御前の御許に侍り。……おろそかなるべき事にはあらねど、かすかな・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・蚊柱の声の様に聞こえて来るケルソン市の薄暮のささやきと、大運搬船を引く小蒸汽の刻をきざむ様な響とが、私の胸の落ちつかないせわしい心地としっくり調子を合わせた。 私は立った儘大運搬船の上を見廻して見た。 寂然して溢れる計り坐ったり立っ・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・やがて死んだのか宗旨代えをしたのか、その乞食は影を見せなくなって、市民は誰れ憚らず思うさまの生活に耽っていたが、クララはどうしても父や父の友達などの送る生活に従って活きようと思う心地はなかった。その頃にフランシス――この間まで第一の生活の先・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・立花は夢心地にも、何等か意味ありげに見て取ったので、つかつかと靴を近けて差覗いたが、ものの影を見るごとき、四辺は、針の長短と位地を分ち得るまでではないのに、判然と時間が分った。しかも九時半の処を指して、時計は死んでいるのであるが、鮮明にその・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・この橋はやや高いから、船に乗った心地して、まず意を安んじたが、振り返ると、もうこれも袂まで潮が来て、海月はひたひたと詰め寄せた。が、さすがに、ぶくぶくと其処で留った、そして、泡が呼吸をするような仇光で、 と曳々声で、水を押し・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・若い男が倒れていてな、……川向うの新地帰りで、――小母さんもちょっと見知っている、ちとたりないほどの色男なんだ――それが……医師も駆附けて、身体を検べると、あんぐり開けた、口一杯に、紅絹の糠袋……」「…………」「糠袋を頬張って、それ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・さらけ留めて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。」 六「貴方、ちょっと……お話がございます。」 ――弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭の来ようが、また遅かった。――「へい、旦那御機嫌よう。」と三人ば・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
出典:青空文庫