・・・そこで彼等はまず神田の裏町に仮の宿を定めてから甚太夫は怪しい謡を唱って合力を請う浪人になり、求馬は小間物の箱を背負って町家を廻る商人に化け、喜三郎は旗本能勢惣右衛門へ年期切りの草履取りにはいった。 求馬は甚太夫とは別々に、毎日府内をさま・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・学校から帰りに、神田をいっしょに散歩して、須田町へ来ると、いつも君は三田行の電車へのり、僕は上野行の電車にのった。そうしてどっちか先へのったほうを、あとにのこされたほうが見送るという習慣があった。今日、船の上にいる君が、波止場をながめるのも・・・ 芥川竜之介 「出帆」
・・・ 鰻屋の神田川――今にもその頃にも、まるで知己はありませんが、あすこの前を向うへ抜けて、大通りを突切ろうとすると、あの黒い雲が、聖堂の森の方へと馳ると思うと、頭の上にかぶさって、上野へ旋風を捲きながら、灰を流すように降って来ました。ひょ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・これと事柄は違えども、神田の火事も十里を隔てて幻にその光景を想う時は、おどろおどろしき気勢の中に、ふと女の叫ぶ声す。両国橋の落ちたる話も、まず聞いて耳に響くはあわれなる女の声の――人雪頽を打って大川の橋杭を落ち行く状を思うより前に――何とな・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・随って手洗い所が一番群集するので、喜兵衛は思附いて浅草の観音を初め深川の不動や神田の明神や柳島の妙見や、その頃流行った諸方の神仏の手洗い所へ矢車の家紋と馬喰町軽焼淡島屋の名を染め抜いた手拭を納めた。納め手拭はいつ頃から初まったか知らぬが、少・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ その頃私は神田小川町に下宿していた。忌々しくてならないので、帰ると直ぐ「鴎外を訪うて会わず」という短文を書いて、その頃在籍していた国民新聞社へ宛ててポストへ入れに運動かたがた自分で持って出掛けた。で、直ぐ近所のポストへ投り込んでからソ・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・私は二円五十銭で買ったが、武田さんのことだから二円ぐらいで神田の夜店あたりで買ったのではないかと思うとキャッキャッとうれしかった。五円札を二つに千切って運転手に渡したという話も、もしかしたら武田さんの飛ばそうとしているデマではないかと思うと・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・ 神田の新銀町の相模屋という畳屋の末娘として生れた彼女が、十四の時にもう男を知り、十八の歳で芸者、その後不見転、娼妓、私娼、妾、仲居等転々とした挙句、被害者の石田が経営している料亭の住込仲居となり、やがて石田を尾久町の待合「まさき」で殺・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 警官――横井と彼とは十年程前神田の受験準備の学校で知り合ったのであった。横井はその時分医学専門の入学準備をしていたのだが、その時分下宿へ怪しげな女なぞ引張り込んだりしていたが、それから間もなく警察へ入ったのらしかった。 横井はやは・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
一 神田のある会社へと、それから日比谷の方の新聞社へ知人を訪ねて、明日の晩の笹川の長編小説出版記念会の会費を借りることを頼んだが、いずれも成功しなかった。私は少し落胆してとにかく笹川のところへ行って様子を聞いてみようと思って、郊・・・ 葛西善蔵 「遁走」
出典:青空文庫