・・・ 産婆の世話で、どこかの病院かで産まして、それから下宿の下の三畳の部屋でもあてがって、当分下宿で育てさせる――だいたいそうと相談をきめてあったのだが、だんだん時期の切迫とともに、自分の神経が焦燥しだした。「あなたの奥さんのうちは財産・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・私の今日の惨めな生活、瘠我慢、生の執着――それが彼の一滴の涙によって、たとえ一瞬間であろうと、私の存在が根柢から覆えされる絶望と自棄を感じないわけに行かなかった。この哀れな父を許せ! 父の生活を理解してくれ――いつの場合でも私はしまいにはこ・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 一年中で私の最もいやな時期ももう過ぎようとしています。思い出してみれば、どうにも心の動きがつかなかったような日が多かったなかにも、南葵文庫の庭で忍冬の高い香を知ったようなときもあります。霊南坂で鉄道草の香りから夏を越した秋がもう間近に・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・しかるに叔父さんもその希望が全くなくなったがために、ほとんど自棄を起こして酒も飲めば遊猟にもふける、どことなく自分までが狂気じみたふうになられた。それで僕のおとっさんを始めみんな大変に気の毒に思っていられたのである。 ところが突然鉄也さ・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・その青春時代学芸と教養とに発足する時期において、倫理的要求が旺盛であるか否かということはその人の一生の人格の質と品等とを決定する重大な契機である。倫理的なるものに反抗し、否定するアンチモラールはまだいい。それはなお倫理的関心の領域にいるから・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ われわれはちょうどわれわれの幸福と成功とに恰好な女性と、恰好な時機に、そうである故に、恋に陥るとはかぎらない。何の内助の才能もなく、一生の負荷となるような女性と、きわめて不相応な時機に、ただ運命的な恋愛のみの故で、はなれ難く結びつくこ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・しかしながらまだ、彼らが知性の否定や、啓示の肯定をいうようになる時機はおそらく遠いであろう。 われわれは生の探求に発足した青年に、永遠の真理の把握と人間完成とを志向せしめようと祈願するとき、彼らがいずれはその理性知を揚棄せねばならぬこと・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・というのは見掛けのものであって、当時者の間にはいろいろの不満も、倦怠も、ときには別離の危険さえもあったであろうが、愛の思い出と夫婦道の錬成とによってその時機を過ごすと多くは平和な晩年期がきて終わりを全うすることができるのである。今更・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・こちらも、攻撃の時期と口実をねらって相手を睨みつゞけた。 十一月十八日、その彼等の部隊は、東支鉄道を踏み越してチチハル城に入城した。昂鉄道は完全に××した。そして、ソヴェート同盟の国境にむかっての陣地を拡げた。これは、もう、人の知る通り・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・は無いと見えて山形に五の字の描かれた一升徳利は火鉢の横に侍坐せしめられ、駕籠屋の腕と云っては時代違いの見立となれど、文身の様に雲竜などの模様がつぶつぶで記された型絵の燗徳利は女の左の手に、いずれ内部は磁器ぐすりのかかっていようという薄鍋が脆・・・ 幸田露伴 「貧乏」
出典:青空文庫