・・・元より無我と云う字の解釈にも依りますが、字書通り、我見なきこと、我意なきこと、我を忘れて事をなすと致しましても、結局「我」と云うものを無いと認める事は出来ませんでしょう。 私心ないと云う事、我見のないと云う事は、自分の持って居る或る箇性・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・礬水びきの美濃紙へ辞書をすっかり写したものさ、と云っていたが、それもこの時代の夫婦の一日の光景であったであろう。何かの儀式のとき、どうしても洋服にズボンがいるということになった。仕様がないから、俄に私の繻珍の丸帯をほどいてズボンにしておきせ・・・ 宮本百合子 「繻珍のズボン」
・・・その人はこの頃大規模な辞書――百科全書を編纂していた。彼女の書店で、若しか一人若い筆の立つ女を助手として入用ではないだろうか。彼女自身役に立てる道はなくても、同じ仕事の他の方面を分担している人々が、万一需めているかもしれない。――「ああ・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
・・・長尾の地所が二十万円でうれたら結婚する。それまで娘早稲田に聴講生として通う。 ○○された少年 美貌、十六 入院、身体不動 看護婦さわぐ。うるさく。なめる。すいつく。 一人、自分から勝手にひどいことをする。・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・などと自署された他の人々の寄書がある。ホテルの木立の間に父の筆で、雲を破って輝き出した満月の絵が描加えられてある。父は当時いつも「無声」という号をつかい、隷書のような書体でサインして居る。 書簡註。父は当時三十七歳。旧・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・若い人は論外だし、もう一人いる人も、円いような顔の老人で、すっかり背中を丸め、机の下でこまかい昔の和綴じの字書の頁をめくっている。もうあの人もいなくなったのかもしれない。 時の推移を感じ、私は視線をうつして、前後左右に待っている閲覧人の・・・ 宮本百合子 「図書館」
・・・ 場末の御かげでかなり広い地所を取って、めったに引越し騒ぎなんかしない家が続いて居るので、ポツッと間にはさまった斯う云う家が余計五月蠅がられたり何かして居るのである。 貸すための家に出来て居るんだから人が借りるのに無理が有ろう筈もな・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
・・・奥蔵を建て増し、地所を買い添えて、山城河岸を代表する富家にしたのはこの伊兵衛である。 伊兵衛は七十歳近くなって、竜池に店を譲って隠居し、山城河岸の家の奥二階に住んでいた。隠居した後も、道を行きつつ古草鞋を拾って帰り、水に洗い日に曝して自・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・という洋語も知らず、また当時の辞書には献身という訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衛の娘に現われたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。しかし献身のうちに潜む反抗の鋒は、いちとことばを交えた佐佐のみ・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・それを読んでいた時字書を貸して貰った。蘭和対訳の二冊物で、大きい厚い和本である。それを引っ繰り返して見ているうちに、サフランと云う語に撞着した。まだ植字啓源などと云う本の行われた時代の字書だから、音訳に漢字が当て嵌めてある。今でもその字を記・・・ 森鴎外 「サフラン」
出典:青空文庫