・・・ やがて大地震だ。私たちは引き続く大きな異変の渦の中にいた。私が自分のそばにいる兄妹三人の子供の性質をしみじみ考えるようになったのも、早川賢というような思いがけない人の名を三郎の口から聞きつけるようになったのも、そのころからだ。 毎・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・なんとなく次郎の求めているような素朴さは、私自身の求めているものでもある。最後からでも歩いて行こうとしているような、ゆっくりとおそい次郎の歩みは、私自身の踏もうとしている道でもある。三郎はまた三郎で、画面の上に物の奥行きなぞを無視し、明快に・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・「おばあちゃん、地震?」 と誰かの口真似のように言って、お三輪の側へ来るのは年上の方の孫だ。五つばかりになる男の児だ。「坊やは何を言うんだねえ」 とお三輪は打ち消すように言って、お富と顔を見合せた。過ぐる東京での震災の日には・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・頬の肉が落ちているので、顔の大きさが、青年自身の手の平ほどに見える。この青年がなんと思ったか、ちぢれた髪の上に被っていた鳥打帽を脱いで、それを高く差し伸べた手に持って岸に掛かっている船に向けて振り動かした。そして可笑しな叫声を出した。喜びの・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ 厩頭は自身でたしかめにいきました。そうすると、ほんとうにウイリイの部屋から灯がもれていました。 ウイリイは、人が来たのを感づいて、急いで羽根をかくしました。それで厩頭がはいって来たときには、部屋の中はまっ暗になっていました。 ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
一 大正十二年のおそろしい関東大地震の震源地は相模なだの大島の北上の海底で、そこのところが横巾最長三海里、たて十五海里の間、深さ二十ひろから百ひろまで、どかりと落ちこんだのがもとでした。 そのために・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・淋しいスバーと同じように、彼女自身満月の自然は、凝っと眠った地上を見下しています。スバーの若い健やかな生命は、胸の中で高鳴りました。歓びと悲しさとが、彼女の身も心も、溢れるばかりに迫って来る。スバーは、際限のない自分の寂しささえ超えて恍惚と・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・何かのメモのつもりであろうが、僕自身にも書いた動機が、よくわからぬ。 窓外、庭ノ黒土ヲバサバサ這イズリマワッテイル醜キ秋ノ蝶ヲ見ル。並ハズレテ、タクマシキガ故ニ、死ナズ在リヌル。決シテ、ハカナキ態ニハ非ズ。と書かれてある。 これを書・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・ と多少、自信に似たものを得て、まえから腹案していた長い小説に取りかかった。 昨年、九月、甲州の御坂峠頂上の天下茶屋という茶店の二階を借りて、そこで少しずつ、その仕事をすすめて、どうやら百枚ちかくなって、読みかえしてみても、そんなに悪い・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・ たしかに、あれは、関東大地震のとしではなかったかしら、と思うのであるが、そのとしの一夏を、私は母や叔母や姉やら従姉やらその他なんだか多勢で、浅虫温泉の旅館で遊び暮した事があって、その時、一番下のおしゃれな兄が、東京からやって来て、しば・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫