・・・何も彼も時世時節ならば是非もないというような川柳式のあきらめが、遺伝的に彼の精神を訓練さしていたからである。身過ぎ世過ぎならば洋服も着よう。生れ落ちてから畳の上に両足を折曲げて育った揉れた身体にも、当節の流行とあれば、直立した国の人たちの着・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・当時を顧ると、時世の好みは追々芸者を離れて演劇女優に移りかけていたので、わたくしは芸者の流行を明治年間の遺習と見なして、その生活風俗を描写して置こうと思ったのである。カッフェーの女給はその頃にはなお女ボーイとよばれ鳥料理屋の女中と同等に見ら・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・お石は其時世を越えて散々な目に逢って来たのである。幾度か相逢ううちにお石も太十の情に絆された。そうでなくとも稀に逢えば誰でも慇懃な語を交換する。お石に逢う度に其情は太十の腸に浸み透るのであった。瞽女は秋毎に村へ来た。そうしてお石は屹度其仲間・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・の間に相場がきまってしまった、この時事に臨んでかつて狼狽したる事なきわれつらつら思うよう、できさえすれば退却も満更でない、少なくとも落車に優ること万々なりといえども、悲夫逆艪の用意いまだ調わざる今日の時勢なれば、エー仕方がない思い切って落車・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・またどういう時世にはどんな職業が自然の進化の原則として出て来るものである。と一々明細に説明してやって、例えば東京市の地図が牛込区とか小石川区とか何区とかハッキリ分ってるように、職業の分化発展の意味も区域も盛衰も一目の下に暸然会得できるような・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・実際我々は時勢の必要上そうは行かないようなものの腹の中では人の世話にならないでどこまでも一本立でやって行きたいと思っているのだからつまりはこんな太古の人を一面には理想として生きているのである。けれども事実やむをえない、仕方がないからまず衣物・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・しかもその修養のうちには、自制とか克己とかいういわゆる漢学者から受け襲いで、強いて己を矯めた痕迹がないと云う事を発見した。そうしてその幾分は学問の結果自らここに至ったものと鑑定した。また幾分は学問と反対の方面、すなわち俗に云う苦労をして、野・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・彼らの精神作用について微妙な細い割り方をして、しかもその割った部分を明細に描写する手際がなければ時勢に釣り合わない。これだけの眼識のないものが人間を写そうと企てるのは、あたかも色盲が絵をかこうと発心するようなものでとうてい成功はしないのであ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・余は死ぬ時に辞世も作るまい。死んだ後は墓碑も建ててもらうまい。肉は焼き骨は粉にして西風の強く吹く日大空に向って撒き散らしてもらおうなどといらざる取越苦労をする。 題辞の書体は固より一様でない。あるものは閑に任せて叮嚀な楷書を用い、あるも・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 私はいくらか自省する余裕が出来て来た。すると非常に熱さを感じ始めた。吐く息が、そのまま固まりになってすぐ次の息に吸い込まれるような、胸の悪い蒸し暑さであった。嘔吐物の臭気と、癌腫らしい分泌物との臭気は相変らず鼻を衝いた。体がいやにだる・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫