・・・彼は僕の実家にいる牛乳配達の一人だった。同時にまた今日ほどたくさんいない社会主義者の一人だった。僕はこのヒサイダさんに社会主義の信条を教えてもらった。それは僕の血肉には幸か不幸か滲み入らなかった。が、日露戦争中の非戦論者に悪意を持たなかった・・・ 芥川竜之介 「追憶」
一 僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髪を櫛巻きにし、いつも芝の実家にたった一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸っている。顔も小さければ体も小さい。その又顔はどう云う訳か、少しも・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・…… 僕は妻の実家へ行き、庭先の籐椅子に腰をおろした。庭の隅の金網の中には白いレグホン種の鶏が何羽も静かに歩いていた。それから又僕の足もとには黒犬も一匹横になっていた。僕は誰にもわからない疑問を解こうとあせりながら、とにかく外見だけは冷・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・註をすれば里よりは山の義で、字に顕せば故郷になる……実家になる。 八九年前晩春の頃、同じこの境内で、小児が集って凧を揚げて遊んでいた――杢若は顱の大きい坊主頭で、誰よりも群を抜いて、のほんと脊が高いのに、その揚げる凧は糸を惜んで、一番低・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・お背を推して、お手を引張ってというわけにもゆかないのでね、まあ、御挨拶半分に、お邸はアノ通り、御身分は申すまでもございません。お実家には親御様お両方ともお達者なり、姑御と申すはなし、小姑一人ございますか。旦那様は御存じでもございましょう。そ・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ その前に、渠は母の実家の檀那寺なる、この辺の寺に墓詣した。 俗に赤門寺と云う。……門も朱塗だし、金剛神を安置した右左の像が丹であるから、いずれにも通じて呼ぶのであろう。住職も智識の聞えがあって、寺は名高い。 仁王門の柱に、・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・この兄が後に伊藤八兵衛となり、弟が椿岳となったので、川越の実家は二番目の子が相続して今でもなお連綿としておるそうだ。 椿岳の兄が伊藤の養子婿となったはどういう縁故であったか知らないが、伊藤の屋号をやはり伊勢屋といったので推すと、あるいは・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 気の狂ったおきぬは、その後、すこしおちついたけれど、もうこの村には用のない人とされて、山一つ越した、あちらの漁村の実家へ帰ってしまったそうです。「お嬢さま、せっかくおつれもうして、あの女のうたう子守唄をおきかせすることができません・・・ 小川未明 「谷にうたう女」
・・・ 一事が万事、丁稚奉公は義理にも辛くないとは言えなかったが、しかしはじめての盆に宿下りしてみると、実家はその二三日前に笠屋町から上ノ宮町の方へ移っていました。上宮中学の、蔵鷺庵という寺の真向いの路地の二軒目。そして、そこにはもう玉子はい・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ いよいよ実家に戻ることになり、豹一を連れて帰ってみると、家の中は呆れるほど汚かった。障子の桟にはべたッと埃がへばりつき、天井には蜘蛛の巣がいくつも、押入れには汚れ物がいっぱいあった。……お君が嫁いだ後、金助は手伝い婆さんを雇って家・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫