・・・君のいう魔法使いの婆さんとは違った、風流な愛とか人道とか慈くしむとか云ってるから悉くこれ慈悲忍辱の士君子かなんぞと考えたら、飛んだ大間違いというもんだよ。このことだけは君もよく/\腹に入れてかゝらないと、本当に君という人は吾々の周囲から、…・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ここは昔地獄谷といって罪人の刑場だったそうだが、俺はただ仏様のいる慈悲の里とばかり思ってやってきたんだがね、そう聞いてみるとなるほどこの二年は地獄の生活だったよ。ここを綺麗にして出るとなると七八百の金が要るんだがね、逃げだしたためT君のよう・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督や釈迦や孔子のような人になりたい、真実にそうなりたい。しかしもし僕のこの不思議なる願が叶わないで以て、そうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。「山林の・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・母はこの子を連れて家々の門に立てば、貰い物多く、ここの人の慈悲深きは他国にて見ざりしほどなれば、子のために行末よしやと思いはかりけん、次の年の春、母は子を残していずれにか影を隠したり。太宰府訪でし人帰りきての話に、かの女乞食に肖たるが襤褸着・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 彼は慈悲ふかげな眼ざしで答えた。「おれも知らないのだよ。しかし、日本ではないようだ。」「そうか。」私は溜息をついた。「でも、この木は木曾樫のようだが。」 彼は振りかえって枯木の幹をぴたぴたと叩き、ずっと梢を見あげたのである・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・すべて、これらのお慈悲、ひねこびた倒錯の愛情、無意識の女々しき復讐心より発するものと知れ。つね日頃より貴族の出を誇れる傲縦のマダム、かの女の情夫のあられもない、一路物慾、マダムの丸い顔、望見するより早く、お金くれえ、お金くれえ、と一語は高く・・・ 太宰治 「創生記」
・・・しかるに管下の末寺から逆徒が出たといっては、大狼狽で破門したり僧籍を剥いだり、恐れ入り奉るとは上書しても、御慈悲と一句書いたものがないとは、何という情ないことか。幸徳らの死に関しては、我々五千万人斉しくその責を負わねばならぬ。しかしもっとも・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・だ物心もつかぬ子供の時分に、樹木のおそろしく生茂った父が屋敷の庭をさまよって、或る夏の夕方に、雑草の多い古池のほとりで、蛇と蛙の痛しく噛み合っている有様を見て、善悪の判断さえつかない幼心に、早くも神の慈悲心を疑った……と読んで行く中に、私は・・・ 永井荷風 「狐」
・・・変る夜ごとの枕に泣く売春婦の誠の心の悲しみは、親の慈悲妻の情を仇にしたその罪の恐しさに泣く放蕩児の身の上になって、初めて知り得るのである。「傾城に誠あるほど買ひもせず」と川柳子も已に名句を吐いている。珍々先生は生れ付きの旋毛曲り、親に見放さ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・上下挙って奔走に衣食するようになれば経世利民仁義慈悲の念は次第に自家活計の工夫と両立しがたくなる。よしその局に当る人があっても単に職業として義務心から公共のために画策遂行するに過ぎなくなる。しかのみならず日露戦争も無事に済んで日本も当分はま・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
出典:青空文庫