・・・そよとばかり風立つままに、むら薄の穂打靡きて、肩のあたりに秋ぞ染むなる。さきには汗出でて咽喉渇くに、爺にもとめて山の井の水飲みたりし、その冷かさおもい出でつ。さる時の我といまの我と、月を隔つる思いあり。青き袷に黒き帯して瘠せたるわが姿つくづ・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・、胸を蔽うて、年少判事はこの大なる責任のために、手も自由ならず、足の運びも重いばかり、光った靴の爪尖と、杖の端の輝く銀とを心すともなく直視めながら、一歩進み二歩行く内、にわかに颯と暗くなって、風が身に染むので心着けば、樹蔭なる崖の腹から二頭・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・――一つは、鞄を提げて墓詣をするのは、事務を扱うようで気がさしたからであった。 今もある。……木魚の下に、そのままの涼しい夏草と、ちょろはげの鞄とを見較べながら、「――またその何ですよ。……待っていられては気忙しいから、帰りは帰りと・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 間広き旅店の客少なく、夜半の鐘声森として、凄風一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然たる足音あり寂寞を破り近着き来りて、黒きもの颯とうつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗うあらむ。その時声を立てられな。もし咳をだにしたまわば、怪しき・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 日中は梅の香も女の袖も、ほんのりと暖かく、襟巻ではちと逆上せるくらいだけれど、晩になると、柳の風に、黒髪がひやひやと身に染む頃。もうちと経つと、花曇りという空合ながら、まだどうやら冬の余波がありそうで、ただこう薄暗い中はさもないが、処・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ 事務的に書かれたものに、よくこうした書物があります。それには、いろ/\原因のあることであるが、この頃はことに、そうした書物が多いのではなかろうか。 支配下に強圧されて、職業意識にしかのみ生きない教師等が、なんで、児童を善く感化し、・・・ 小川未明 「読むうちに思ったこと」
・・・ ところで、お前は妾のことをお千鶴に嗅ぎつけられても、一向平気で、それどころか、霞町の本舗でとくに容姿端麗の女事務員を募集し、それにも情けを掛けようとした。まず、手始めに広告取次社から貰った芝居の切符をひそかにかくれてやったり、女の身で・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ 律義な女事務員のように時間は正確であった。 まるで出勤のようであった。しかし、べつに何をするというわけでもない。ただ十時になると、風のようにやって来て、お茶を飲みながら、ちょぼんと坐っているだけだ。そして半時間たつと再び風のように・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・会計や事務いっさいを任されてきた弟の窶れた顔にも、初めて安心の色が浮んだ。「戒名は何とか言ったな?……白雲院道屋外空居士か……なるほどね、やっぱしおやじらしい戒名をつけてくれたね」「そうですね。それにいかに商売でも、ああだしぬけに持・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・それがいつか彼の口から出版屋の方へ伝わり、出版屋の方でも賛成ということで、葉書の印刷とか会場とかいうような事務の方を出版屋の方でやってくれることになったのだ。だからむろん原口や私の名も、そのうちにはいっていなければならぬはずだ。それを勝手に・・・ 葛西善蔵 「遁走」
出典:青空文庫