・・・それは情意と、実践との世界に関連しているのである。特に東洋においては、それはむしろ実践のためにあるものなのであった。 しかしながら前にも述べた如く、良書とは自分の抱く生の問いにこたえ得る書物のみではなく、生の問いそのものをも提起してくれ・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・ところが、メクラは本四国を上位においてそう云ったばかりに、開いた眼が又ふさがってしまった。そのメクラは女だったそうだが、非常に口惜しがってじだんだを踏んだそうである。その足のあとというのが岩に印されている。私もその足のあとだという岩の窪みを・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・ところが、上衣を引きはぐと、どこにどうしてかくしているのか、五十足の靴下が、ばらばらと足もとへ落ちてきた。一人の少年が三十七個の化粧品の壜を持っていた。逃げる奴は射撃した。 それは、一時途絶えたかと思うと、また、警戒兵が気を許している時・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 三十分程たった頃、二人は、上衣を取り、ワイシャツ一つになって、片手に棒を握って、豚群の中へ馳こんでいた。頻りに何か叱した。尻を殴られた豚は悲鳴を上げ、野良を気狂いのように跳ねまわった。 二人は、初めのうちは、豚を小屋に追いかえ・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・彼は、肩から銃をおろし、剣を取り、羊皮の帽子も、袖に星のついた上衣も乗馬靴もすっかりぬぎ捨ててしまった。ユーブカをつけた女は、次の室から、爺さんの百姓服を持ってきた。 ウォルコフは、その百姓服に着換え、自分が馬上で纏っていた軍服や、銃を・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
暑いですね。ことしは特に暑いようですね。実に暑い。こんなに暑いのに、わざわざこんな田舎にまでおいで下さって、本当に恐縮に思うのですが、さて、私には何一つ話題が無い。上衣をお脱ぎになって下さい。どうぞ。こんな暑いのに外を歩くのはつらいも・・・ 太宰治 「炎天汗談」
・・・しかも、こんどのシャツには蝶々の翅のような大きい襟がついていて、その襟を、夏の開襟シャツの襟を背広の上衣の襟の外側に出してかぶせているのと、そっくり同じ様式で、着物の襟の外側にひっぱり出し、着物の襟に覆いかぶせているのです。なんだか、よだれ・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・ゆうべ学校から疲れて帰り、さあ、けさ冷しておいたミルクでも飲みましょう、と汗ばんだ上衣を脱いで卓のうえに置いた、そのとき、あの無智な馬鹿らしい手紙が、その卓のうえに白くひっそり載っているのを見つけたのだ。私の室に無断で入って来たのに違いない・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・みんな食卓に着いて、いざお祭りの夕餐を始めようとしたとき、あの人は、つと立ち上り、黙って上衣を脱いだので、私たちは一体なにをお始めなさるのだろうと不審に思って見ているうちに、あの人は卓の上の水甕を手にとり、その水甕の水を、部屋の隅に在った小・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・ 着物は何処かの小使のお古らしい小倉の上衣に、渋色染の股引は囚徒のかと思われる。一体に無口らしいが通りがかりの漁師などが声をかけて行くと、オーと重い濁った返事をする。貧苦に沈んだ暗い声ではなくて勢いのある猛獣の吼声のようである。いつも恐・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫