・・・ 河蒸汽ののどかな汽笛が河岸に響きわたった。雪解の水は、岸から溢れそうにもれ上がっている。帆をあげた舟、発動汽船、ボート、櫓で漕ぐ舟、それらのものが春のぽかぽかする陽光をあびて上ったり下ったりした。 黒河からブラゴウエシチェンスクへ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・これには種の説があって、前後が上記と反対しているのもある。 澄元契約に使者に行った細川の被官の薬師寺与一というのは、一文不通の者であったが、天性正直で、弟の与二とともに無双の勇者で、淀の城に住し、今までも度たびたび手柄を立てた者なので、・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・盛んな蒸汽の音が塾の直ぐ前で起った。年のいかない生徒等は門の外へ出て、いずれも線路側の柵に取附き、通り過ぎる列車を見ようとした。「どうも汽車の音が喧しくて仕様が有りません。授業中にあいつをやられようものなら、硝子へ響いて、稽古も出来ない・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・そう言い結んだ時に、あの人の青白い頬は幾分、上気して赤くなっていました。私は、あの人の言葉を信じません。れいに依って大袈裟なお芝居であると思い、平気で聞き流すことが出来ましたが、それよりも、その時、あの人の声に、また、あの人の瞳の色に、いま・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・昨年の春、えい、幸福クラブ、除名するなら、するがよい、熊の月の輪のような赤い傷跡をつけて、そうして、一年後のきょうも尚、一杯ビイル呑んで、上気すれば、縄目が、ありあり浮んで来る、そのような死にそこないの友人のために、井伏鱒二氏、檀一雄氏、そ・・・ 太宰治 「喝采」
・・・蟹田から青森まで、小さい蒸気船の屋根の上に、みすぼらしい服装で仰向に寝ころがり、小雨が降って来て濡れてもじっとしていて、蟹田の土産の蟹の脚をポリポリかじりながら、暗鬱な低い空を見上げていた時の、淋しさなどは忘れ難い。結局、私がこの旅行で見つ・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・女房、俄かに上気し、その筋書を縷々と述べ、自らの説明に感激しむせび泣く。亭主、上衣を着て、ふむ、それは面白そうだ。そうして、その働きのある亭主は仕事に出掛け、夜は或るサロンに出席し、曰く、この頃の小説ではやはり、ヘミングウェイの「誰がために・・・ 太宰治 「小説の面白さ」
・・・こんど、今君の勉強に刺戟されて、一夜、清窓浄机を装って、勉強いたした。「義人は信仰によりて生くべし。」パウロは、この一言にすがって生きていたように思う。パウロは、神の子ではない。天才でもなければ、賢者でもない。肉体まずしく、訥弁である。・・・ 太宰治 「パウロの混乱」
・・・ 四、慾の深き事、常軌を逸したるところあり。玩具屋の前に立ちて、あれもいや、これもいや、それでは何がいいのだと問われて、空のお月様を指差す子供と相通うところあり。大慾は無慾にさも似たり。 五、我、ことごとに後悔す。天魔に魅いられたる・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・明窓浄几、筆硯紙墨、皆極精良、とでもいうような感じで、あまりに整頓されすぎていて、かえって小川君がこの部屋では何も勉強していないのではないかと思われたくらいであった。床柱に、写楽の版画が、銀色の額縁に収められて掛けられていた。それはれいの、・・・ 太宰治 「母」
出典:青空文庫