・・・例えば家なき児レミがミリガン夫人に別れを告げて船を下りてから、ヴイタリス老人とちょっと顔を見合せて、そうしてあてのない旅路をふみ出すところなどでも、何でもないようで細かい情趣がにじんでいる。永い旅路と季節の推移を示す短いシーンの系列など、ま・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・それがそぼふる秋雨ににじんで、更にしっとりとした情趣を帯びていた。 翌朝港内をこめていた霧が上がると秋晴れの日がじりじりと照りつけた。電車で街を縦走して、とある辻から山腹の方へ広い坂道を上がって行くと、行き止まりに新築の大神宮の社がある・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・さびしい花瓶の菜の花もそのたびに淡いあわれの情趣を誘うた。 今度はI君がサイクラメンとポインセチアを届けてくれた。ポインセチアはこれまで花屋で見かけた事はあるが、名はそれまでは知らなかった。もらった鉢にさしてある木札で始めて知った。薬び・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・また江上の夏の夜の情趣も浮かぶであろう。 小銃弾の速度は毎秒九百メートルほどである。それで約一キロメートル前方の山腹で一斉射撃の煙が見えたら、それから一秒余おくれて弾が来て、それからまた二秒近くおくれて、はじめて音が聞こえるわけである。・・・ 寺田寅彦 「耳と目」
・・・ 同じく昔の郷里の夏の情趣と結びついている思い出の売り声の中でも枇杷葉湯売りのそれなどは、今ではもう忘れている人よりも知らぬ人が多いであろう。朱漆で塗った地に黒漆でからすの絵を描いたその下に烏丸枇杷葉湯と書いた一対の細長い箱を振り分けに・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・その旧習とその情趣とを失えば、この古き名所はあってもないのと同じである。 江戸のむかし、吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであった。明治時代の吉原とその附近の町との情景は、一葉女史の『たけくらべ』、広津柳浪の・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・かくの如く都会における家庭の幽雅なる方面、町中の住いの詩的情趣を、専ら便所とその周囲の情景に仰いだのは実際日本ばかりであろう。西洋の家庭には何処に便所があるか決して分らぬようにしてある。習慣と道徳とを無視する如何に狂激なる仏蘭西の画家といえ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・これらの光景とその時の情趣とは、ピエール・ロッチがその著『お菊さん』の中に委しく記述している。雨の小息みもなく降りしきる響を、狭苦しい人力車の幌の中に聞きすましながら、咫尺を弁ぜぬ暗夜の道を行く時の情懐を述べた一章も、また『お菊さん』の書中・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・傾きやすき冬日の庭に塒を急ぐ小禽の声を聞きつつ梔子の実を摘み、寒夜孤燈の下に凍ゆる手先を焙りながら破れた土鍋にこれを煮る時のいいがたき情趣は、その汁を絞って摺った原稿罫紙に筆を執る時の心に比して遥に清絶であろう。一は全く無心の間事である。一・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・した若い女たちの身体の線が如何にも柔く豊かに見えるのが、自分をして丁度、宮殿の敷瓦の上に集う土耳其美人の群を描いたオリヤンタリストの油絵に対するような、あるいはまた歌麿の浮世絵から味うような甘い優しい情趣に酔わせるからであった。 自分は・・・ 永井荷風 「夏の町」
出典:青空文庫