・・・かくの如きパストラルの情趣は日本に帰って来た後に至っても、久しくわたくしの忘れ得ぬものであったので、わたくしはいつも蘆荻の繁った地を捜めて散歩した。しかし蘆荻蒹葭は日と共に都市の周囲より遠けられ、今日では荒川放水路の堤防から更に江戸・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・ 寒月の隈なく照り輝いた風のない静な晩、その蒼白い光と澄み渡る深い空の色とが、何というわけなく、われらの国土にノスタルジックな南方的情趣を帯びさせる夜、自分は公園の裏手なる池のほとりから、深い樹木に蔽われた丘の上に攀じ登って、二代将軍の・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・ 白城の城主狼のルーファスと夜鴉の城主とは二十年来の好みで家の子郎党の末に至るまで互に往き来せぬは稀な位打ち解けた間柄であった。確執の起ったのは去年の春の初からである。源因は私ならぬ政治上の紛議の果とも云い、あるは鷹狩の帰りに獲物争いの・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・珈琲店の軒には花樹が茂り、町に日蔭のある情趣を添えていた。四つ辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、杏のように明るくて可憐であった。かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・だから、気分的には新たなつよい、晴やかで情趣深い恋愛が求められているとしても、男女の社会関係の実体は、ふるい世界の鎖にからみつかれている有様である。 基本的な社会関係までを自分の問題としてとりあげる迫力がなく、しかも常に朗らかでばかりあ・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・ところが、その時代の政略にしたがって実父はその娘の良人と不和に到ったら娘を強いてもとり戻して、さらに二度目の良人であるその城主に嫁しずけた。不幸にもまたここに実父の側との戦いがはじまって、良人の軍は敗れたので、夫人の実父は前例どおり、また夫・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・父鴎外によって深く愛された娘としての面から父を描き、家庭における父の周囲に或る程度までふれ、文章は、いかにも鴎外が愛した女の子らしい情趣と観察、率直さを含んでいる。 この趣の深い回想から、母親思いで「即興詩人」の活字を特に大きくさせたと・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・だが、其なら京都の人は本当に情趣豊かな風流人かというと、さて、と思う。面白いことに、生粋の京都生れ、京都暮しの女性を見ていると、彼女は本当によい色彩で着物を選び、家の隅々まできちんと行き届いた生活ぶりでやっているが、しんに迫って見ると、ただ・・・ 宮本百合子 「京都人の生活」
・・・プロレタリア作家として窪川稲子は、作品の或る情趣とか、リリカルな効果とかそんなものでは安心しない深く真面目な芸術家としての感覚をもっている。又、自分の作家的出生即ち、家庭の事情によって小学校さえ卒業させられず、少女時代から勤労者の生活を経験・・・ 宮本百合子 「窪川稲子のこと」
・・・非常にうるおいあり情趣あるリアリズムの画で、北の海フィンランド辺の海の入江の雨後の感じが活きて居ります。フィンランド辺の海は真夏でもキラキラする海面の碧い反射はなくて、どちらかというと灰色っぽく浅瀬が遠く、低く松などあって、寂しさがある。波・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫