・・・僕は彼等の関係を肯定してやる根拠の一半を失ったのだから、勢い、前のような好意のある眼で、彼等の情事を見る事が出来なくなってしまったのだ。これは確か、君が朝鮮から帰って来た頃の事だったろう。あの頃の僕は、いかにして妻の従弟から妻を引き離そうか・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・しかしその女と僕との関係は、君たちが想像しているような、ありふれた才子の情事ではない。こう云ったばかりでは何の事だか、勿論君にはのみこめないだろう。いや、のみこめないばかりなら好いが、あるいは万事が嘘のような疑いを抱きたくなるかも知れない。・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・たゞ一つ、情事に関する相談だけは持込もうと思っていない。 それから、頭脳のいゝことも、高等学校時代から僕等の仲間では評判である。語学なぞもよく出来るが、それは結局菊池の分析的の頭脳のよさの一つの現われに過ぎないのだと思う。所謂理智の逞ま・・・ 芥川竜之介 「合理的、同時に多量の人間味」
・・・が、爰に一つ註釈を加えねばならないのは元来江戸のいわゆる通人間には情事を風流とする伝襲があったので、江戸の通人の女遊びは一概に不品行呼ばわりする事は出来ない。このデカダン興味は江戸の文化の爛熟が産んだので、江戸時代の買妓や蓄妾は必ずしも淫蕩・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・が、芸術となると二葉亭はこの国士的性格を離れ燕趙悲歌的傾向を忘れて、天下国家的構想には少しも興味を持たないでやはり市井情事のデリケートな心理の葛藤を題目としている。何十年来シベリヤの空を睨んで悶々鬱勃した磊塊を小説に托して洩らそうとはしない・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・しかし私は美しい恋も薄汚ない恋もしてみようという気には到底なれない。情事に浮身をやつすには心身共に老いを感じすぎているのである。私は若く美しい異性を前にして、あたかも存在せぬごとく、かすんでいることが多い。もっとも私とても三十三歳のひとり者・・・ 織田作之助 「髪」
・・・併し、若い者の情事には存外口喧しくなく、玄人女に迷って悩んでいる板場人が居れば、それほど惚れているのだったら身受けして世帯を持てと、金を出してやったこともあるという。辻占売りの出入りは許さなかったが、ポン引が出入り出来るのはこの店だけだった・・・ 織田作之助 「世相」
・・・『もっともはなはだしい』という意味は無論彼らの情事に関することは言わないでも明らかである。 さア初めろと自分の急き立つるので、そろそろ読み上げる事になった。自分がそばで聴くとは思いがけない事ゆえ、大いに恐縮している者もある。それもそのは・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・それは多くは醜悪なものであり、最もいい場合でも、すでに青春を失ってしまったところの、エスプリなき情事にすぎないからだ。 二 倫理的憧憬と恋愛 性の目ざめと同時に善への憧憬が呼びさまされるということは何という不思議な、・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・数字一より十まで、日、月、同、御、候の常用漢字、変体仮名、濁点、句読点など三十個ばかり、合わせても百字に足りぬものを木製活字にして作らせ、之を縦八寸五分、横四寸七分、深さ一寸三分の箱に順序正しく納めて常時携帯、ありしこと思うことそのままに、・・・ 太宰治 「盲人独笑」
出典:青空文庫