・・・――巳の時様、とそう云っているのでございます。朝に晩に、聞いて存じながら、手前はまだ拝見しません。沼津、三島へ出ますにも、ここはぐっと大廻りになります。出掛けるとなると、いつも用事で、忙しいものですから。…… ――御都合で、今日、御案内・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ 引続いては兵隊饅頭、鶏卵入の滋養麺麭。……かるめら焼のお婆さんは、小さな店に鍋一つ、七つ五つ、孫の数ほど、ちょんぼりと並べて寂しい。 茶めし餡掛、一品料理、一番高い中空の赤行燈は、牛鍋の看板で、一山三銭二銭に鬻ぐ。蜜柑、林檎の水菓・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・その盲進が戦争の滋養物である様に、君の現在では、家族の饑が君の食物ではないか。人間は皆苦しみに追われて活動しているのだ。」「そう云われると、そうに違いないのやろけど」と、友人は微笑しながら、「まア、もッとお飲み。」傾けた徳利の酒が不足で・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・少なくも、その書中から、滋養を摂るのに、それも稀にしかない本でゞもないかぎり、手垢がついていては、不快を禁ずることができないのであります。 書物でも、雑誌でも、私はできるだけ綺麗に取扱います。それなら、それ程、書物というものをありがたく・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・が、柳吉はまだ病後の体で、滋養剤を飲んだり、注射を打ったりして、そのためきびしい物入りだったから、半年経っても三十円と纏まった金はたまらなかった。 ある夕方、三味線のトランクを提げて日本橋一丁目の交叉点で乗換えの電車を待っていると、「蝶・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・辛棒していたろうか、或日こんな馬鹿気たことは断然止うという動議を提出した、その議論は何も自からこんな思をして隠者になる必要はない自然と戦うよりか寧ろ世間と格闘しようじゃアないか、馬鈴薯よりか牛肉の方が滋養分が多いというんだ。僕はその時大に反・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・そしてその感染性とわれわれの人格教養の血肉となり、滋養となり、霊感とさえもなる力もまた文芸の作品に劣るものではない。ただ文芸には文芸の約束があり、倫理学にはその特殊の約束があるのみである。カントの道徳哲学を読んで人間理性の自律の崇高感に打た・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・これを怠っては芸術の成長の一つの大きな滋養を失うことになる。いい人のものはたくさん読むだけ良い。しかし読書は考えたり観察したりすることほど大切ではない。良く考え良く観察し、良く読むことが揃わねばならぬ。一、できるだけ多く書くこと・・・ 倉田百三 「芸術上の心得」
・・・そこには、酒があり、滋養に富んだ御馳走がある。雪を慰みに、雪見の酒をのんでいるのだ。それだのに、彼等はシベリアで何等恨もないロシア人と殺し合いをしなければならないのだ!「進まんか! 敵前でなにをしているのだ!」 中隊長が軍刀をひっさ・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・その代わり、滋養物はできうるだけ多く取った。それがため、からだの弱かったわりに、そう病気にもかからなかったのである。 前いうような家庭であったから、別に心配もしなかった、いたずらにつまらぬことに頭を悩まして、からだを疲労させるということ・・・ 寺田寅彦 「わが中学時代の勉強法」
出典:青空文庫