・・・ 江丸は運命に従うようにじりじり桟橋へ近づいて行った。同時に又蒼い湘江の水もじりじり幅を縮めて行った。すると薄汚い支那人が一人、提籃か何かをぶら下げたなり、突然僕の目の下からひらりと桟橋へ飛び移った。それは実際人間よりも、蝗に近い早業だ・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄るのである。 「いろは」短歌 我我の生活に欠くべからざる思想は或は「いろは」短歌に尽きているかも知れない。 運命 遺伝、境遇、偶然、――我我の運命を・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・のみならずいずれも武装したまま、幾条かの交通路に腹這いながら、じりじり敵前へ向う事になった。 勿論江木上等兵も、その中に四つ這いを続けて行った。「酒保の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。」――そう云う堀尾一等卒の言葉は、同時・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・そしてその足は黒土の中にじりじりと沈みこんで行く。脅かすような父の顔も、歎くような母の顔も、怨むようなオッタヴィアナの顔も見る見る変って、眼に逼る難儀を救ってくれと、恥も忘れて叫ばんばかりにゆがめた口を開いている。しかし三人とも声は立てずに・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ と呼ぶ声、叫ぶ声、女どもの形は、黒い入道雲を泳ぐように立騒ぐ真上を、煙の柱は、じりじりと蔽い重る。…… 畜生――修羅――何等の光景。 たちまち天に蔓って、あの湖の薬研の銀も真黒になったかと思うと、村人も、往来も、いつまたたく間・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・鍋の底はじりじりいう、昨夜から気を揉んで酒の虫は揉殺したが、矢鱈無性に腹が空いた。」と立ったり、居たり、歩行いたり、果は胡坐かいて能代の膳の低いのを、毛脛へ引挟むがごとくにして、紫蘇の実に糖蝦の塩辛、畳み鰯を小皿にならべて菜ッ葉の漬物堆く、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで赫と日が当ると、日中は早じりじりと来そうな頃が、近山曇りに薄りと雲が懸って、真綿を日光に干すような、ふっくりと軽い暖かさ。午頃の蔭もささぬ柳の葉に、ふわふわと柔い風が懸る。……その柳の下を・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・かすかにおとよさんの呼吸の音の聞き取れた時、省作はなんだかにわかに腹のどこかへ焼金を刺されたようにじりじりっと胸に響いた。 はたして省作の胸に先刻起こった、不埒な女だとかはなはだよくない人だとか思った事が、どこの隅へ消えたか、影も形も見・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・汽車の時間を勘ちがいして、そんな真夜なかに着いたことといい、客引きの腑に落ちかねる振舞いといい、妙に勝手の違う感じがじりじりと来て、頭のなかが痒ゆくなった。夜の底がじーんと沈んで行くようであった。煙草に火をつけながら、歩いた。けむりにむせて・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 勢いっぱいに張り上げたその声は何か悲しい響きに登勢の耳にじりじりと焼きつき、ふと思えば、それは火のついたようなあの赤児の泣声の一途さに似ていたのだ。 その日から、登勢はもう彼らのためにはどんな親切もいとわぬ、三十五の若い母親だった・・・ 織田作之助 「螢」
出典:青空文庫