・・・「ヘイそうでございますか、イヤもう行き当りばったりで足の向き次第、国々を流して歩るくのでございますからどこでどなた様に逢いますことやら……」 途で二三の年若い男女に出遇った。軽雲一片月をかざしたのであたりはおぼろになった。手風琴の軽・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・「僕、日本人、行ってもいいですか?」「よろしい」 その日本人は、二十歳を過ぎたばかりだった。モスクワへ行きたい希望を抑えることができなかった。黒河に住んで一年になる。いつか、ブラゴウエシチェンスクにも、顔見知りが多くなっていた。・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ おきのは、出会した人々から、嫌味を浴せかけられるのがつらさに、「もういっそ、やめさして、奉公にでも出すかいの。」と源作に云ったりした。「奉公やかい。」と、源作は、一寸冷笑を浮べて、むしむしした調子で、「己等一代はもうすんだよう・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・「きみも出すか、一束出したら五銭やるぞ。」 姉よりさきに帰っている妹にも云った。きみはまだ小さくて、一束もよく背負えなかったが、「一束に五銭呉れるん。そんなら出さあ。」 きみは、口を尖らして、眼をかゞやかした。「出すこと・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・「前の日に思い立って、翌る日は家を出て来るような、そんな旦那衆のようなわけにいかすか」「そうとも」「そこは女だもの。俺は半年も前から思い立って、漸くここまで来た」 これは二人の人の会話のようであるが、おげんは一人でそれをやっ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・「こんな不自由な島ですから、ああはおっしゃってもとうとお出でくださらないのかもしれないと申しまして、しまいにはみんなで気を落していましたのでございますよ」と、懐かしそうに言うのである。自分は狐にでもつままれたようであった。丘の上の一つ家・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・いつの時代でも本当の事を言ったら殺されますわね、ヨハネでも、キリストでも、そうしてヨハネなんかには復活さえ無いんですからね、と言った事もあった。日本の生きている作家に就いては一言も言った事が無かった。第四には、これが最も重大なところかも知れ・・・ 太宰治 「メリイクリスマス」
・・・その人の多様な過去の生活を現わすかのような継ぎはぎの襤褸は枯木のような臂を包みかねている。わが家の裏まで来て立止った。そして杖にすがったまま辛うじてかがんだ猫背を延ばして前面に何物をか求むるように顔を上げた。窪んだ眼にまさに没せんとする日が・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・すると路地のどぶ板を踏む下駄の音が小走りになって、ふって来たよと叫ぶ女の声が聞え、表通を呼びあるく豆腐屋の太い声が気のせいか俄に遠くかすかになる……。 わたくしは雪が降り初めると、今だに明治時代、電車も自動車もなかった頃の東京の町を思起・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・る監督官なれば、近く進んでさあ、僕がしっかり抑えているから乗りたまえ、おっとそう真ともに乗っては顛り返る、そら見たまえ、膝を打たろう、今度はそーっと尻をかけて両手でここを握って、よしか、僕が前へ押し出すからその勢で調子に乗って馳け出すんだよ・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
出典:青空文庫