・・・ と云って推重なった中から、ぐいと、犬の顔のような真黒なのを擡げると、陰干の臭が芬として、内へ反った、しゃくんだような、霜柱のごとき長い歯を、あぐりと剥く。「この前歯の処ウを、上下噛合わせて、一寸の隙も無いのウを、雄や、(と云うのが・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 黒繻子の襟も白く透く。 油気も無く擦切るばかりの夜嵐にばさついたが、艶のある薄手な丸髷がッくりと、焦茶色の絹のふらしてんの襟巻。房の切れた、男物らしいのを細く巻いたが、左の袖口を、ト乳の上へしょんぼりと捲き込んだ袂の下に、利休形の・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・そして裏に立つ山に湧き、処々に透く細い町に霧が流れて、電燈の蒼い砂子を鏤めた景色は、広重がピラミッドの夢を描いたようである。 柳のもとには、二つ三つ用心水の、石で亀甲に囲った水溜の池がある。が、涸れて、寂しく、雲も星も宿らないで、一面に・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・幾度遣っても笥の皮を剥くに異ならずでありまするから、呆れ果ててどうと尻餅、茫然四辺をみまわしますると、神農様の画像を掛けた、さっき女が通したのと同じ部屋へ、おやおやおや。また南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と耳に入ると、今度は小宮山も釣込まれて、・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・お蔭で心持好く手足を伸すよ、姐さんお前ももう休んでおくれ。」「はい、難有うございます、それでは。」 と言って行こうとしましたが、ふと坐り直しましたから、小宮山は、はてな、柏屋の姐さん、ここらでその本名を名告るのかと可笑しくもございま・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ のめのめとそこに待っていたのが、了簡の余り透く気がして、見られた拍子に、ふらりと動いて、背後向きに横へ廻る。 パッパッと田舎の親仁が、掌へ吸殻を転がして、煙管にズーズーと脂の音。くく、とどこかで鳩の声。茜の姉も三四人、鬱金の婆様に・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ 栗柿を剥く、庖丁、小刀、そんなものを借りるのに手間ひまはかからない。 大剪刀が、あたかも蝙蝠の骨のように飛んでいた。 取って構えて、ちと勝手は悪い。が、縄目は見る目に忍びないから、衣を掛けたこのまま、留南奇を燻く、絵で見た伏籠・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ お米は、莞爾して坂上りに、衣紋のやや乱れた、浅黄を雪に透く胸を、身繕いもせず、そのまま、見返りもしないで木戸を入った。 巌は鋭い。踏上る径は嶮しい。が、お米の双の爪さきは、白い蝶々に、おじさんを載せて、高く導く。「何だい、今の・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・「まアあなたは親切な人ですことね……お増は蔭日向のない憎気のない女ですから、私も仲好くしていたんですが、この頃は何となし私に突き当る様な事ばかし言って、何でもわたしを憎んでいますよ」「アハハハ、それはお増どんが焼餅をやくのでさ。つま・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「もう、好く好かないの問題じゃアない、病気がうつる問題だよ」「そんな物アとっくに直ってる、わ」「分るもんか? 貴様の口のはたも、どこの馬の骨か分りもしない奴の毒を受けた結果だぞ」 言っておかなかったが、かの女の口のはたの爛れ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
出典:青空文庫