・・・が、初めの五分も見れば、それがどういうプロセスで、どうなってゆくか、ということがすぐ見透く写真ばかりでは救われないと思った。しかし今ここに来ているちょっと評判のいい最後のだけ見たい気になった。戻って入ってしまうか、「入ってさえしまえば」こん・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・どうも自分の身体の具合が好くないと思い思いして、幾度となく温泉地行なぞを思い立ったのも、もうあの頃からだ。けれども彼女が根本からの治療を受けるために自分の身体を医者に診せることだけは避け避けしたのは、旦那の恥を明るみへ持出すに忍びなかったか・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・干瓢を剥くもいいが、手なぞを切って、危くて眼を放せすか。まあ、あれはそういうものだで、どうかして私ももっとあれの側に居て、自分で面倒を見てやりたいと思うわなし。ほんに、あれがなかったら――どうして、あなた、私も今日までこうして気を張って来ら・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・その牧場が好く見える。木が一本一本見分けられる。忽ちまた真向うの、石を斫り出す処の岩壁が光り出した。それが黄いろい、燃え上がっている石の塀のように見える。それと同時に河に掛かっている鉄の船も陸に停まっている列車も光り出す。広々とした河水がま・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・私に窮屈な思いをさせないというのは、つまり、私にみじんも色気を感じさせないという事なのだから、きっとその女のひとの精神が気高いのだろう、話をしてこだわりを感じさせる女には、まさか、好くの好かれるのというはっきりした気持などはないでしょうが、・・・ 太宰治 「嘘」
・・・煙草を吸うとかえっておなかが空くものだ。よし給え。焼鳥が喰いたいなら、買ってやる。」 少年たちは、吸い掛けの煙草を素直に捨てました。すべて拾歳前後の、ほんの子供なのです。私は焼鳥屋のおかみに向い、「おい、この子たちに一本ずつ。」・・・ 太宰治 「美男子と煙草」
・・・おなかに赤ちゃんがいると、とてもおなかが空くんだって。おなかの赤ちゃんと二人ぶん食べなければいけないのね。お嫂さんは私と違って身だしなみがよくてお上品なので、これまではそれこそ「カナリヤのお食事」みたいに軽く召上って、そうして間食なんて一度・・・ 太宰治 「雪の夜の話」
・・・自分がいなくても好いことは、自分が一番好く知っているのである。「宜しい。それじゃあ、明日邸へ来てくれ給え。何もかも話して聞せるから。」中尉はくるりと背中を向けて、同僚と一しょに店を出て行った。 門口に出ると、旆騎兵中尉が云った。・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・この縞はたぶん紙を漉く時に繊維を沈着させる簾の痕跡であろうが、裏側の荒い縞は何だか分らなかった。 指頭大の穴が三つばかり明いて、その周囲から喰み出した繊維がその穴を塞ごうとして手を延ばしていた。 そんな事はどうでもよいが、私の眼につ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・これと反対に、読んでおのずから胸の透くような箇所があれば、それはきっと著者のほんとうに骨髄に徹するように会得したことをなんの苦もなく書き流したところなのである。 この所説もはなはだ半面的な管見をやや誇張したようなきらいはあろうが、おのず・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
出典:青空文庫