・・・もうすっかり覚悟しなければ成らなくなりました。ああ仕方がない、もうこの上は何でも欲しがるものを皆やりましょう、そして心残りの無いよう看護してやりましょうと思いました。 此の時分から彼は今まで食べていた毎日の食物に飽きたと言い、バターもい・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・そしていつもそんな崖の上に立って人の窓ばかりを眺めていなければならない。すっかりこれが僕の運命だ。そんなことが思えて来るのです。――しかし、それよりも僕はこんなことが言いたいんです。つまり窓の眺めというものには、元来人をそんな思いに駆るある・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・に通をきかしたつもりで樋口を遊ばしたからおもしろい、鷹見君のいわゆる、あれが勝手にされてみたのだろうが、鸚鵡まで持ちこまれて、『お玉さん樋口さん』の掛合まで聞かされたものだから、かあいそうに、ばあさんすっかりもてあましてしまって、樋口のいな・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・今さっきほかの者が来てすっかり持って行っちゃったんだ。」 松木はうしろから叫んだ。「いいえ、いらないわ。」 彼女の細長い二本の脚は、強いばねのように勢いよくはねながら、丘を登った。「ガーリヤ! 待て! 待て!」 彼は乾麺・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・「それが奇妙で、学校の門を出るとすぐに題が心に浮んで、わずかの道の中ですっかり姿が纏まりました。」「何を……どんなものを。」「鵞鳥を。二羽の鵞鳥を。薄い平めな土坡の上に、雄の方は高く首を昂げてい、雌はその雄に向って寄って行こうと・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・俺はすっかり喜んでしまった。これなら特等室だ、蒸しッ返えしの二十九日も退屈なく過ごせると思った。然し皆はそのために「特等室」と云っているのではなかった。始め、俺にはワケが分らなかった。 ところが、二日目かに、モサで入っていた目付のこわい・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・暮れから道路工事の始まっていた電車通りも石やアスファルトにすっかり敷きかえられて、橡の並み木のすがたもなんとなく見直す時だ。私は次郎と二人でその新しい歩道を踏んで、鮨屋の店の前あたりからある病院のトタン塀に添うて歩いて行った。植木坂は勾配の・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・じいさんは名前の相談をしておくのをすっかり忘れていました。「そうそう。名前がまだきめてありません。ウイリイとつけましょう。」と、じいさんはでたらめにこう言いました。坊さんは帳面へ、そのまま「ウイリイ」とかきつけました。お百姓の夫婦は、い・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・若し皆が、彼女のことをすっかり忘れ切って仕舞っても、スバーは、ちっとも其を辛いとは思わなかったでしょう。 けれども、誰が心労を忘れることが出来ましょう? 夜も昼も、スバーの両親の心は彼女の為に痛んでいるのでした。 わけても、母親は彼・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ ――神聖な家庭に、けちをつけちゃ困るね。不愉快だ。 ――おそれいります。ほら、ハンケチ、あげるわよ。 ――ありがとう。借りて置きます。 ――すっかり、他人におなりなすったのねえ。 ――別れたら、他人だ。このハンケチ、や・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫