・・・その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。 芥川竜之介 「杜子春」
・・・ その後にようやく景気が立ちなおってからも、一流の大家を除く外、ほとんど衣食に窮せざるものはない有様で、近江新報その他の地方新聞の続き物を同人の腕こきが、先を争うてほとんど奪い合いの形で書いた。否な独り同人ばかりでなく、先生の紹介によっ・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・気が気でないのは、時が後れて驚破と言ったら、赤い実を吸え、と言ったは心細い――一時半時を争うんだ。もし、ひょんな事があるとすると――どう思う、どう思う、源助、考慮は。」「尋常、尋常ごとではござりません。」と、かッと卓子に拳を掴んで、・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・かれらは父をさしおき先を争うて庭へまわった。なくなられたその日までも庭の掃除はしたという老父がいなくなってまだ十月にもならないのに、もうこのとおり家のまわりが汚なくなったかしらなどと、考えながら、予も庭へまわる。「まあ出しぬけに、ど・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・かくて二十頭の牛は水上五寸の架床上に争うて安臥するのであった。燃材の始末、飼料品の片づけ、為すべき仕事は無際限にあった。 人間に対する用意は、まず畳を上げて、襖障子諸財一切の始末を、先年大水の標準によって、処理し終った。並の席より尺余床・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・椿岳は芳崖や雅邦と争うほどな巨腕ではなかったが、世間を茶にして描き擲った大津絵風の得意の泥画は「俺の画は死ねば値が出る」と生前豪語していた通りに十四、五年来著るしく随喜者を増し、書捨ての断片をさえ高価を懸けて争うようにもてはやされて来た。・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・もし小説に仮托するなら矢野龍渓や東海散士の向うを張って中里介山と人気を争うぐらいは何でもなかったろう。二葉亭の頭と技術とを以て思う存分に筆を揮ったなら日本のデュマやユーゴーとなるのは決して困難でなかったろう。が、芸術となると二葉亭はこの国士・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・そこへさえゆけば、人は眠っていて楽に生活がされるから、たがいに争うということを知らない。ただ、しかしその幸福の島へいくのが容易でない。波が荒いし、恐ろしい風が吹く、また、深い海の中には魔物がすんでいて、通る船を覆してしまう。だれも、まだその・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・ 水車場には、知らぬ人が入って住まうようになりました。「若いうちに、うんと働いて、年をとってから楽な暮らしをしたいものだ。」と、二番めの夫はいいました。 彼女も、また、そう思いました。「ほんとうに、そうでございます。」と、女・・・ 小川未明 「ちょうと三つの石」
・・・本当の愛であったならば、死を以って争うのが当然である。キリストの無抵抗主義若しくは犠牲というものは、そういうような逃避的な卑屈のものではなかった。五 私はアルツィバーセフの作にあった一節、彼のピラトがシモンに向って、「おれはあの・・・ 小川未明 「反キリスト教運動」
出典:青空文庫