・・・今の予は何を言っても、文壇の地位を争うものでないから、誰も怒るものは無い。彼虚舟と同じである。さればと云って、読者がもし予を以て文壇に対して耳を掩い目を閉じているものとなしたならば、それは大に錯って居るのであろう。予は新聞雑誌も読む。新刊書・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・そして東京で私の住まう団子坂上の家の向いに来て下宿した。素と私の家の向いは崖で、根津へ続く低地に接しているので、その崖の上には世に謂う猫の額程の平地しか無かった。そこに、根津が遊郭であった時代に、八幡楼の隠居のいる小さい寮があった。後にそれ・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・清武の家は隣にいた弓削という人が住まうことになって、安井家は飫肥の加茂に代地をもらった。 仲平は三十五のとき、藩主の供をして再び江戸に出て、翌年帰った。これがお佐代さんがやや長い留守に空閨を守ったはじめである。 滄洲翁は中風で、六十・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・ 磨かれた大理石の三面鏡に包まれた光の中で、ナポレオンとルイザとは明暗を閃めかせつつ、分裂し粘着した。争う色彩の尖影が、屈折しながら鏡面で衝撃した。「陛下、お気が狂わせられたのでございます。陛下、お放しなされませ」 しかし、ナポ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・我を以て争う時にはどんなに弱いものでも刃向って来る。嘲笑や皮肉によっては何者も征服せられない。偉人は卑しい者の内にも人間を見る。手におえないようなあばずれ者にも真に人間らしい本音を吐かせる。 しかし我をなくすることによって個性の色はいさ・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫