・・・ 支那人の呉清輝は、部屋の入口の天鵞絨のカーテンのかげから罪を犯した常習犯のように下卑た顔を深沢にむけてのぞかした。深沢は、二人の支那人の肩のあいだにぶらさがって顔をしかめている田川を睨めつけた。「何、貴様が、ボンヤリしているんだ!・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・彼は、部下よりも、もっと精気に満ちた幸福を感じていた。背後の村には燃えさしの家が、ぷすぷす燻り、人を焼く、あの火葬場のような悪臭が、部隊を追っかけるようにどこまでも流れ拡がってついてきた。けれども、それも、大隊長の内心の幸福を妨げなかった。・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・それは、「幾世紀も幾千年にも亘る祖国の存在によって固められた最も深い感情の一つである。」だが、それだけに階級の対立する社会では、最も多く支配階級に利用され得る感情である。そしてしば/\、真実の隠蔽のためにその文句が繰りかえされる。これが文学・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・ 心身共に生気に充ちていたのであったから、毎日の朝を、まだ薄靄が村の田の面や畔の樹の梢を籠めているほどの夙さに起出て、そして九時か九時半かという頃までには、もう一家の生活を支えるための仕事は終えてしまって、それから後はおちついた寛やかな・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・は先生が哲学上の用語に就て非常の苦心を費したもので「革命前仏蘭西二世紀事」は其記事文の尤も精采あるものである。而して先生は殊に記事文を重んじた。先生曰く、事を紀して読者をして見るが如くならしむるは至難の業である。若し能く記事の文に長ずれば往・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・俺だちは、だから此処で、出て行く迄に新しい精気と強い身体を作っておかなければならないのだ。 だが、さすがにこの赤色別荘は、一銭の費用もかゝらないし、喜楽的などころか、毎日々々が鉄の如き規律のもとに過ぎてゆくのだ――然し、それは如何にも俺・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・物数寄な家族のもののあつまりのことで、花の風情を人の姿に見立て、あるものには大音羽屋、あるものには橘屋、あるものには勉強家などの名がついたというのも、見るからにみずみずしい生気を呼吸する草の一もとを頼もうとするからの戯れであった。時には、大・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・僅かに二輪だけ花の紅く残った池の中には、青い蓮の実の季節を語り顔なのがあり、葉と葉は茂って、一面に重なり合って、そのいずれもが九月の生気を呼吸していた。お三輪はその藤棚の下の位置から、「池の茶屋」とした旗の出ている方を眺めながら、もう一度休・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ それを聞くと、お力は精気の溢れた顔を伏せて、眼のふちが紅くなるほど泣いた。 島崎藤村 「食堂」
・・・去歳の春、始めて一書を著わし、題して『十九世紀の青年及び教育』という。これを朋友子弟に頒つ。主意は泰西の理学とシナの道徳と並び行なうべからざるの理を述ぶるにあり。文辞活動。比喩艶絶。これを一読するに、温乎として春風のごとく、これを再読するに・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
出典:青空文庫