・・・イタリア人は生死の境に立っていても、遊びの心持がある。兎に角木村のためには何をするのも遊びである。そこで同じ遊びなら、好きな、面白い遊びの方が、詰まらない遊びより好いには違いない。しかしそれも朝から晩までしていたら、単調になって厭きるだろう・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・とうとうノイペスト製糸工場の前に出た。ツォウォツキイは工場で「こちらで働いていました後家のツァウォツキイと申すものは、ただ今どこに住まっていますでしょうか」と問うた。 住まいは分かった。ツァウォツキイはまた歩き出した。 ユリアは労働・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 三 今は、彼の妻は、ただ生死の間を転っている一疋の怪物だった。あの激しい熱情をもって彼を愛した妻は、いつの間にか尽く彼の前から消え失せてしまっていた。そうして、彼は? あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今は・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・遊女街の中央でただ一軒伯母の家だけ製糸をしていたので、私は周囲にひしめき並んだ色街の子供たちとも、いつのまにか遊ぶようになったりした。 二番目の伯母は、私たちのいた同じ村の西方にあって、魚屋をしていた。この伯母一家だけはどの親戚たちから・・・ 横光利一 「洋灯」
・・・しかし私は絶望する心を鞭うって自己を正視する。悲しみのなかから勇ましい心持ちが湧いて出るまで。私の愛は恋人が醜いゆえにますます募るのである。 私は絶えずチクチク私の心を刺す執拗な腹の虫を断然押えつけてしまうつもりで、近ごろある製作に従事・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・彼女の顔には絶えまなく情熱が流れている、顔の外郭は静止しているけれども表情は刻々として変わって行く。しかもその刻々の表情が明瞭な完全な彫刻的表情なのである。言いかえれば彫刻の連続である。 たとえば在来は、苦痛の時には激しい悲鳴をあげてい・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・との聖旨を奉戴しなかったことに基づく。国民の大部分がその志を遂げようとすることを、なんらか危険なことのように考えたのに基づく。だから「人心が倦んで」、その中から自暴自棄的な行動をとるものも出て来たのである。しかし聖勅に違背するような不忠な政・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
・・・柳の芽が出始めて以来、三、四個月の間絶えず次から次へと動いていた東山の緑色が、ここで一時静止する。それはちょうど祇園祭りのころで、昔は京都の市民が祭りの一週間とその前後とで半月以上にわたって経済的活動を停止した時期である。 しかしこの静・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
・・・一瞬間深い沈黙と静止が起こる。突如として鋭い金属の響きが堂内を貫ぬき通るように響く。美しい高い女高音に近い声が、その響きにからみついて緩やかな独唱を始める。やがてそれを追いかけるように低い大きい合唱が始まる。屈折の少ない、しかし濃淡の細やか・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
・・・しかしそれがさらに明らかに現われているのは生死の問題についてである。ここに先生自身の超脱への道があったように思う。 元来先生は軽々しく解決や徹底や統一を説く者に対して反感を持っていた。人生の事はそう容易に片づくものでない。頭では片づくだ・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫