・・・それは、よく廻った独楽が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。 しかし、昨日、・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
・・・自分はあまりのことだと制止せんとする時、水野、そんな軽石は畏くないが読まないと変に思うだろうから読む、自分で読むと、かれは激昂して突っ立った。「一筆示し上げ参らせ候大同口よりのお手紙ただいま到着仕り候母様大へん御よろこび涙を流してくり返・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・故郷の風景は旧の通りである、しかし自分は最早以前の少年ではない、自分はただ幾歳かの年を増したばかりでなく、幸か不幸か、人生の問題になやまされ、生死の問題に深入りし、等しく自然に対しても以前の心には全く趣を変えていたのである。言いがたき暗愁は・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・もしそれこれを憶うていよいよ感じ、瞑想静思の極にいたればわれ実に一呼吸の機微に万有の生命と触着するを感じたりき もしこの事、単にわが空漠たる信念なりとするも、わが心この世の苦悩にもがき暗憺たる日夜を送る時に当たりて、われいかにしばしば汝・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・きっぱりと言い放って老先生の眼睛を正視した。「もし乃公が与らぬと言ったらどうする?」「致し方が御座いません!」「帰れ! 招喚にやるまでは来るな、帰れ!」と老人は言放って寝返して反対を向いて了った。 細川は直ちに起って室を出る・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・この第一義が決定することを「生死をはなれる」というのだ。 この第一義がきまると、いろいろな心の働きがその心境からおのずと出てくる。目は英知に輝き、心気は澄んでくる。いろいろな欲望や、悩みや、争いはありながらも、それに即して、直ちに静かさ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・それでも足は、立ち止っている時にでも常に動かしていなければならない。静止していると、そこが凍傷にかゝるからだ。 夜がふけるに従って、頭の上では、星が切れるように冴えかえった。酒場のある向うの丘からこちらの丘へ燈火をつけない橇が凍った雪に・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・途端に恐ろしい敏捷さで東坡巾先生は突と出て自分の手からそれを打落して、やや慌て気味で、飛んでもない、そんなものを口にして成るものですか、と叱するがごとくに制止した。自分は呆れて驚いた。 先生の言によると、それはタムシ草と云って、その葉や・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・そこで菊亭殿が姓氏録を検めて、はじめて豊臣秀吉となった。 これも植通は宜かった。信長秀吉の鼻の頭をちょっと弾いたところ、お公卿様にもこういう人の一人ぐらいあった方が慥に好かった。秀吉が藤原氏にならなかったのも勿論好かった。このところ両天・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・わたくしは、長寿かならずしも幸福ではなく、幸福はただ自己の満足をもって生死するにありと信じていた。もしまた人生に、社会的価値とも名づけるべきものがあるとすれば、それは、長寿にあるのではなくて、その人格と事業とか、四囲および後代におよぼす感化・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫