・・・ これ私の性の獰猛なるに由る乎、癡愚なるに由る乎、自分には解らぬが、併し今の私に人間の生死、殊に死刑に就ては、粗ぼ左の如き考えを有って居る。 二 万物は皆な流れ去るとヘラクリタスも言った、諸行は無常、宇宙は変化の・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ 血気壮んなものには静止していられないような陽気だった。高瀬はしばらく士族地への訪問も怠っていた。しかしその日は塾の同僚を訪うよりも、足の向くままに、好きな田圃道を歩き廻ろうとした。午後に、彼は家を出た。 岩と岩の間を流れ落ちる谷川・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・下宿と小路ひとつ距て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の一鶴、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたいとさえ思った。工場の塀をよじ・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・幸福クラブ、誕生の第一の夕、しかし最初の話手が陰惨酷烈、とうてい正視できぬある種の生活断面を、ちらとでもお目にかけたとあっては、重大の問題、ゆゆしき責任を感じます。ありがたいことには、神様、今いちどだけ、私をおゆるし下さいました。たそがれ、・・・ 太宰治 「喝采」
・・・酒は、私の発狂を制止してくれた。私の自殺を回避させてくれた。私は酒を呑んで、少し自分の思いを、ごまかしてからでなければ、友人とでも、ろくに話のできないほど、それほど卑屈な、弱者なのだ。 少し酔って来た。すし屋の女中さんは、ことし二十七歳・・・ 太宰治 「鴎」
・・・ 笹島先生は、酒をお猪口で飲むのはめんどうくさい、と言い、コップでぐいぐい飲んで酔い、「そうかね、ご主人もついに生死不明か、いや、もうそれは、十中の八九は戦死だね、仕様が無い、奥さん、不仕合せなのはあなただけでは無いんだからね。」・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・蒼ざめた、カリギュラ王は、その臣下の手に依って弑せられるところとなり、彼には世嗣は無く全く孤独の身の上だったし、この後、誰が位にのぼるのか、群臣万民ふるえるほどの興奮を以て私議し合っていた。後継は、さだめられた。カリギュラの叔父、クロオジヤ・・・ 太宰治 「古典風」
・・・メッサライナには、ブリタニカスと呼ばれる世子があった。父のクロオジヤスに似て、おっとりしていた。ネロの美貌を、盛夏の日まわりにたとえるならば、ブリタニカスは、秋のコスモスであった。ネロは、十一歳。ブリタニカスは、九歳。 奇妙な事件が起っ・・・ 太宰治 「古典風」
・・・けれども私は、よほど頭がわるく、それにまた身のほど知らぬ自惚れもあり、人の制止も聞かばこそ、なに大丈夫、大丈夫だと匹夫の勇、泳げもせぬのに深潭に飛び込み、たちまち、あっぷあっぷ、眼もあてられぬ有様であった。そのような愚かな作家が、未来の鴎外・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・そこでは、人の生死さえ出鱈目である。太宰などは、サロンに於いて幾度か死亡、あるいは転身あるいは没落を広告せられたかわからない。 私はサロンの偽善と戦って来たと、せめてそれだけは言わせてくれ。そうして私は、いつまでも薄汚いのんだくれだ。本・・・ 太宰治 「十五年間」
出典:青空文庫