・・・その台所道具の象徴する、世智辛い東京の実生活は、何度今日までにお君さんへ迫害を加えたか知れなかった。が、落莫たる人生も、涙の靄を透して見る時は、美しい世界を展開する。お君さんはその実生活の迫害を逃れるために、この芸術的感激の涙の中へ身を隠し・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・が、こう世の中が世智辛くなっては緑雨のような人物はモウ出まいと思うと何となく落莫の感がある。 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。開いた口がふさがらぬとはこのことである。ただ、ひとの物腰だけで、ひとを判断しようとしている。下品とはそのことである。君の文学には、どだい、何の伝統もない。チェホフ? 冗談はやめてくれ・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・今の世智辛い世の中に、こんな広大な「何の役にも立たない」地面の空白を見るだけでも心持がのびのびするのである。こんなところで天幕生活をしたらさぞ愉快であろうといったら、運転手が、しかし水が一滴もありませんという。金のある人は、寝台や台所のつい・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・戦後の世智辛さではどうなったかそれは知らない。とにかく日本などでは、まだなかなかそういう遠大な考えで学者の飼い殺しをする会社はそう多数にはあるまいと思われる。あるいはそこまでに学者の腕前に対する信用が高められないためかもしれない。そうだとす・・・ 寺田寅彦 「学問の自由」
・・・とにかくこうなるとせっかくの最初の空想も雲消霧散して残るものは世智辛い苦々しい現実である。それにしてもこの「商売」が一体どのくらいの収入になるものか、今度逢ったら思い切って一つ聞いてみてやろうと思っている。同じ「感傷」を売り付けるにしても小・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 田舎に居て、東京の様子に暗い夫婦は、血縁と云うものが、この世智辛い世の中で働く事を非常に買いかぶって、当座は大船にでも乗った様な気で居た。けれ共、折々よこすお君からの便り、又、東京に居る弟の達からの知らせなどによると、眉のひそまる様な・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・狭い文壇的気流の匂いだの、ゴシップだの、競争だの、いりくんだ利害関係だのから、作家同士或は作家、編輯者との間からは、世が世智辛くなるにつれ、率直さや朗らかさや、呵々大笑的気分は消失して来ているであろう。その内輪で、どちらかと云えば神経質な交・・・ 宮本百合子 「文学の大衆化論について」
出典:青空文庫