・・・ それでも或日の四時過ぎに、母の云いつけで僕が背戸の茄子畑に茄子をもいで居ると、いつのまにか民子が笊を手に持って、僕の後にきていた。「政夫さん……」 出し抜けに呼んで笑っている。「私もお母さんから云いつかって来たのよ。今日の・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 土耳古帽氏が真鍮刀を鼠股引氏に渡すと、氏は直にそれを予に逓与して、わたしはこれは要らない、と云いながら、見つけたものが有るのか、ちょっと歩きぬけて、百姓家の背戸の雑樹籬のところへ行った。籬には蔓草が埒無く纏いついていて、それに黄色い花・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・たそがれ、部屋の四隅のくらがりに何やら蠢めき人の心も、死にたくなるころ、ぱっと灯がついて、もの皆がいきいきと、背戸の小川に放たれた金魚の如く、よみがえるから不思議です。このシャンデリヤ、おそらく御当家の女中さんが、廊下で、スイッチをひねった・・・ 太宰治 「喝采」
・・・教室の窓を乗り越え、背戸の小川を飛び越え、チャリネのテントめがけて走った。テントのすきまから、ほの暗い内部を覗いたのである。チャリネのひとたちは舞台にいっぱい蒲団を敷きちらし、ごろごろと芋虫のように寝ていた。学校の鐘が鳴りひびいた。授業がは・・・ 太宰治 「逆行」
・・・ふと、この同じ瞬間、どこかの可哀想な寂しい娘が、同じようにこうしてお洗濯しながら、このお月様に、そっと笑いかけた、たしかに笑いかけた、と信じてしまって、それは、遠い田舎の山の頂上の一軒家、深夜だまって背戸でお洗濯している、くるしい娘さんが、・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・師範の寄宿舎で焚火をして叱られた時の事が、ふいと思い出されて、顔をしかめてスリッパをはいて、背戸の井戸端に出た。だるい。頭が重い。私は首筋を平手で叩いてみた。屋外は、凄いどしゃ降りだ。菅笠をかぶって洗面器をとりに風呂場へ行った。「先生お・・・ 太宰治 「新郎」
天幕の破れ目から見ゆる砂漠の空の星、駱駝の鈴の音がする。背戸の田圃のぬかるみに映る星、籾磨歌が聞える。甲板に立って帆柱の尖に仰ぐ星、船室で誰やらが欠びをする。 寺田寅彦 「星」
・・・陽炎や名も知らぬ虫の白き飛ぶ橋なくて日暮れんとする春の水罌粟の花まがきすべくもあらぬかなのごときは古文より来たるもの、春の水背戸に田つくらんとぞ思ふ白蓮を剪らんとぞ思ふ僧のさま この「とぞ思ふ」と・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・眼下は、どこか人家の背戸だ。荒壁のうしろに、小さい一枚畑があって蔬菜が作ってある。手拭をかぶった女子が、雨にかまわず畝のところにかがんで何かしている。それがいつまでも遙か下の方に小さく見えた。 雨中、福済寺を見る。やはり黄檗宗で、明・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫