・・・…… 路に沿うた竹藪の前の小溝へは銭湯で落す湯が流れて来ている。湯気が屏風のように立騰っていて匂いが鼻を撲った――自分はしみじみした自分に帰っていた。風呂屋の隣りの天ぷら屋はまだ起きていた。自分は自分の下宿の方へ暗い路を入って行った・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・私は久し振りに手拭をさげて銭湯へ行きました。やはり雨後でした。垣根のきこくがぷんぷん快い匂いを放っていました。 銭湯のなかで私は時たま一緒になる老人とその孫らしい女の児とを見かけました。花月園へ連れて行ってやりたいような可愛い児です。そ・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ かの字港に着くと、船頭がもう用意をして待っていた。寂しい小さな港の小さな波止場の内から船を出すとすぐ帆を張った、風の具合がいいので船は少し左舷に傾ぎながら心持ちよく馳った。 冬の寒い夜の暗い晩で、大空の星の数も読まるるばかりに鮮や・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・売っている品は言わずもがなで、食ってる人は大概船頭船方の類にきまっている。鯛や比良目や海鰻や章魚が、そこらに投げ出してある。なまぐさい臭いが人々の立ち騒ぐ袖や裾にあおられて鼻を打つ。『僕は全くの旅客でこの土地には縁もゆかりもない身だから・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ 犬と人間との入り乱れた真剣な戦闘がしばらくつゞいた。銃声は、日本の兵士が持つ銃のとゞろきばかりでなく、もっとちがった別の銃声も、複雑にまじって断続した。 危く、蒙古犬に喰われそうになっていた浜田たちは、嬉しげに、仲間が現れた、その・・・ 黒島伝治 「前哨」
ここでは、遠くから戦争を見た場合、或は戦争を上から見下した場合は別とする。 銃をとって、戦闘に参加した一兵卒の立場から戦争のことを書いてみたい。 初めて敵と向いあって、射撃を開始した時には、胸が非常にワク/\する。・・・ 黒島伝治 「戦争について」
・・・ 五 一時間ばかり戦闘がつづいた。「日本人って奴は、まるで狂犬みたいだ。――手あたり次第にかみつかなくちゃおかないんだ。」ペーチャが云った。「まだポンポン打ちよるぞ!」 ロシア人は、戦争をする意志を失・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ 負傷者の傷には、各々、戦闘の片影が残されていた。森をくゞりぬけて奥へパルチザンを追っかけたことがある。列車を顛覆され、おまけに、パルチザンの襲撃を受けて、あわくって逃げだしたこともある。傷は、武器と戦闘の状況によって異るのだ。鉄砂の破・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 戦闘が開始されたようなものだ。「イヤ腕を磨くべきはもとよりだが、腕で芸術が出来るものではない。芸術は出来るもので、こしらえるものでは無さそうだ。君の方ではこしらえとおせるかも知れないが、僕の方や窯業の方の、火の芸術にたずさわるもの・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・遠いところから段と歩み近づいて行くと段と人顔が分って来るように、朦朧たる船頭の顔は段と分って来た。膝ッ節も肘もムキ出しになっている絆纏みたようなものを着て、極小さな笠を冠って、やや仰いでいる様子は何ともいえない無邪気なもので、寒山か拾得の叔・・・ 幸田露伴 「観画談」
出典:青空文庫