・・・ 黒んぼは、このとき、港の方を指さしながら、「ずっと、幾千里となく遠いところに、銀色の海があります。それを渡って陸に上がり、雪の白く光った、高い山々が重なっている、その山を越えてゆくので、それは、容易にゆけるところでない。」と答えま・・・ 小川未明 「港に着いた黒んぼ」
・・・そういう時は僕は縁のないものと諦めてしまい、千里を近しとしてその書物を探し廻ろうとは思わない。入手できない書物にあるいは潜んでいるかも知れない未知の重大な思想も、触れなければ触れないで済まして置こうと思う。未知の恋人同様、会わなければ会わな・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・俺も今こそかの芸術の仮面家どもを千里の遠くに唾棄して、安んじて生命の尊く、人類の運命の大きくして悲しきを想うことができる……」 寝間の粗壁を切抜いて形ばかりの明り取りをつけ、藁と薄縁を敷いたうす暗い書斎に、彼は金城鉄壁の思いかで、籠って・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・されどたれあってこの老人を気に留める者もなく、老人もまた人が通ろうと犬が過ぎ行こうと一切おかまいなし、悠々行路の人、縁なくんば眼前千里、ただ静かな穏やかな青空がいつもいつも平等におおうているばかりである。 右の手を左の袂に入れてゴソゴソ・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・ 黒竜江は、どこまでも海のような豊潤さと、悠々さをたたえて、遠く、ザバイガル州と呼倫湖から、シベリアと支那との、国境をうねうねとうねり二千里に渡って流れていた。 十一月の初めだった。氷塊が流れ初めた。河面一面にせり合い、押し合い氷塊・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・鴻雁翔天の翼あれども栩々の捷なく、丈夫千里の才あって里閭に栄少し、十銭時にあわず銅貨にいやしめらるなぞと、むずかしき愚痴の出所はこんな者とお気が付かれたり。ようやくある家にて草鞋を買いえて勇を奮い、八時半頃野蒜につきぬ。白魚の子の吸物いとう・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・おさんは茂兵衛小春は俊雄と相場が極まれば望みのごとく浮名は広まり逢うだけが命の四畳半に差向いの置炬燵トント逆上まするとからかわれてそのころは嬉しくたまたまかけちがえば互いの名を右や左や灰へ曲書き一里を千里と帰ったあくる夜千里を一里とまた出て・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・心の住んでいる世界が、千里も万里も、はなれていたのよ。一緒にいたって、お互い不幸の思いをするだけよ。もう、きれいにおわかれしたいの。あたし、ね、ちかく神聖な家庭を持つのよ。 ――うまく行きそうかね。 ――大丈夫。そのかたは、ね、職工・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・言葉は、感覚から千里もおくれているような気がして、のろくさくって、たまりません。主観を言葉で整理して、独自の思想体系として樹立するという事は、たいへん堂々としていて正統のようでもあり、私も、あこがれた事がありましたが、どうも私は「哲学」とい・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・恥ずかしいほどの少年になってしまった。千里の馬には千里の糧。たわむれに呟いて、たばこ屋に立ち寄り、キャメルという高価の外国煙草を二個も買い、不良少年のふりをして、こっそり吸っては、あわててもみ消す。腰のまがった小さい巡査が、両手をうしろに組・・・ 太宰治 「狂言の神」
出典:青空文庫