・・・台の前部に藁が散らしてあるのは流れる血を防ぐ要慎と見えた。背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩れている、侍女ででもあろうか。白い毛裏を折り返した法衣を裾長く引く坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。女は雪のごとく白い服を着けて、・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・それは全部、「そんな体を持ち合せた労働者が、だらしがない」からだ。 労働者たちは、その船を動かす蒸汽のようなものだ。片っ端から使い「捨て」られる。 暗い、暑い、息詰る、臭い、ムズムズする、悪ガスと、黴菌に充ちた、水夫室だった。 ・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・しかし大概な紀行は純粋の美文的に書くものでなくてもやはり出来るだけ面白く書こうとする即美文的に書こうとする、故に先ず面白く書くという事はその紀行全部の目的でなくても少くも目的の五分は必ずこれであると極めて置いて、さてその外の五分は人によって・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・「もうどうしても、来年は潮汐発電所を全部作ってしまわなければならない。それができれば今度のような場合にもその日のうちに仕事ができるし、ブドリ君が言っている沼ばたけの肥料も降らせられるんだ。」「旱魃だってちっともこわくなくなるからな。・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ある何人かの悧巧な女が、その男のひとの受け切れる範囲での真率さで、わかる範囲の心持を吐露したとしても、それは全部でない。女の真情は現代に生きて、綺麗ごとですんではいないのだから。 生活の環がひろがり高まるにつれて女の心も男同様綺麗ごとに・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。どんな哲学者も、近世になっては大低世界を相待に見て、絶待の存在しないことを認めてはいるが、それでも絶待があるかのように考えている。宗教でも、もうだいぶ古くシュライエルマッヘ・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 饗応に相判などはなかった。膳部を引く頃に、大沢侍従、永井右近進、城織部の三人が、大御所のお使として出向いて来て、上の三人に具足三領、太刀三振、白銀三百枚、次の三人金僉知らに刀三腰、白銀百五十枚、上官二十六人に白銀二百枚、中官以下に鳥目・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・下宿屋全部の部屋が憲兵ばかりで、ぐるりと僕一人の部屋を取り包んでいるものですから、勝手なことの出来るのは、俳句だけです。もう堪らない。今日も憲兵がついて来たのですが、句会があるからと云って、品川で撒いちゃいました。」 帰ってから憲兵への・・・ 横光利一 「微笑」
・・・しかし気候の具合で、三年に一度ぐらいは、遅速があまりなく、一時に全部の樹の紅葉がそろうこともあった。それは大体十一月三日の前後で、四、五日の間、その盛観が続いた。特に、夕日が西に傾いて、その赤い光線が樹々の紅葉を照らす時の美しさは、豪華とい・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫