・・・ と衝と立ったが、早急だったのと、抱いた重量で、裳を前に、よろよろと、お民は、よろけながら段階子。「謹さん。」「…………」「翌朝のお米は?」 と艶麗に莞爾して、「早く、奥さんを持って下さいよ。ああ、女中さん御苦労でし・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 雲は低く灰汁を漲らして、蒼穹の奥、黒く流るる処、げに直顕せる飛行機の、一万里の荒海、八千里の曠野の五月闇を、一閃し、掠め去って、飛ぶに似て、似ぬものよ。ひょう、ひょう。 かあ、かあ。 北をさすを、北から吹・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・信也氏が早急に席を出た時、つまの蓼を真青に噛んで立ったのがその画伯であった。「ああ、やっと、思出した……おつまさん。」「市場の、さしみの……」 と莞爾する。「おさらいは構わないが、さ、さしあたって、水の算段はあるまいか、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 雛の微笑さえ、蒼穹に、目に浮んだ。金剛神の大草鞋は、宙を踏んで、渠を坂道へ橇り落した。 清水の向畠のくずれ土手へ、萎々となって腰を支いた。前刻の婦は、勿論の事、もう居ない。が、まだいくらほどの時も経たぬと見えて、人の来て汲むものも・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・が、水が蒼穹に高い処に光っている。近い山も、町の中央の城と向合った正面とは違い、場末のこの辺は、麓の迫る裾になり、遠山は波濤のごとく累っても、奥は時雨の濃い雲の、次第に霧に薄くなって、眉は迫った、すすき尾花の山の端は、巨きな猪の横に寝た態に・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ あのように純一な、こだわらず、蒼穹にもとどく程の全国民の歓喜と感謝の声を聞く事は、これからは、なかなかむずかしいだろうと思われる。願わくは、いま一度。誰に言われずとも、しばらくは、辛抱せずばなるまい。・・・ 太宰治 「一燈」
・・・肩を張って蒼穹を仰いでいる。傷一つ受けていない。無染である。その人に、太宰という下手くそな作家の、醜怪に嗄れた呟きが、いったい聞えるものかどうか。私の困惑は、ここに在る。 私は今まで、なんのいい小説も書いていない。すべて人真似である。学・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・軽々しい否定は早急な肯定よりもはるかに有害であるからである。これは実験的科学を研究する者に周知の事である。また往々にして忘却される事である。もっともこういうたんねんの吟味をするにはかなりの手数と時間を要する。それかと言って、いつまでもなんら・・・ 寺田寅彦 「比較言語学における統計的研究法の可能性について」
・・・ 深い紺碧をたたえてとうとうとはて知らず流れ行く其の潮は、水底の数知れぬ小石の群を打ちくだき、岩を噛み、高く低く波打つ胸に、何処からともなく流れ入った水沫をただよわせて、蒼穹の彼方へと流れ去る。 此の潮流を人間は、箇人主義又は利己主・・・ 宮本百合子 「大いなるもの」
・・・やせた男が躁急に挽いて行きそうに感ぜられる。この感じはわたくしの意中の車と合致しがたい。そこでわたくしはむなぐるまと訓むことにした。わたくしは着意してこの古言の帯びている時と所との色をうばって、新たなる語としてこれを用いるのである。そしてか・・・ 森鴎外 「空車」
出典:青空文庫