・・・我が番組編成の指導方針は事業創始当初より一貫して神ながらの我が国民精神の涵養を基調とし日本文化の普遍と向上を期するにあるのは云う迄もない所である」とされている。指導方針によって放送審議会がこの大綱を定め、中継番組は放送編成会が働き、ローカル・・・ 宮本百合子 「「ラジオ黄金時代」の底潮」
・・・柵草紙と云ったのがその席だ。この柵草紙の盛時が、即ち鴎外という名の、毀誉褒貶の旋風に翻弄せられて、予に実に副わざる偽の幸福を贈り、予に学界官途の不信任を与えた時である。その頃露伴が予に謂うには、君は好んで人と議論を闘わして、ほとんど百戦百勝・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・竜池は自ら津国名所と題する小冊子を著して印刷せしめ、これを知友に頒った。これは自分の遊の取巻供を名所に見立てたもので、北渓の画が挿んであった。 文政五年に竜池の妻が男子を生んだ。これは摂津国屋の嗣子で、小字を子之助と云った。文政五年は午・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・先年壮士になったような人間だね。」 茶を飲んで席を起つものがちらほらある。 木村は隠しから風炉鋪を出して、弁当の空箱を畳んで包んでいる。 犬塚は楊枝を使いながら木村に、「まあ、少しゆっくりし給え」と云った。 起ち掛かっていた・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・ 僕は暫く依田さんと青年との対話を聞いているうちに、その青年が壮士俳優だと云うことを知った。俳優は依田さんの意を迎えて、「なんでもこれからの俳優は書見をいたさなくてはなりません」などと云っている。そしてそう云っている態度と、読書と云うも・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・その時の吉の草紙の上には、字が一字も見あたらないで、宮の前の高麗狗の顔にも似ていれば、また人間の顔にも似つかわしい三つの顔が書いてあった。そのどの顔も、笑いを浮かばせようと骨折った大きな口の曲線が、幾度も書き直されてあるために、真っ黒くなっ・・・ 横光利一 「笑われた子」
・・・麦積山の創始の時代、すなわち五世紀から六世紀へかけての時代には、中央アジアはまだあまり荒廃せず、盛んな文化創造をやっていたはずである。従ってあの地方の諸都市に、ちょうどそのころガンダーラからアフガニスタンへかけて栄えていた塑像の技術が伝わっ・・・ 和辻哲郎 「麦積山塑像の示唆するもの」
・・・先生の日本哲学をかける小冊子を送らる。……元良先生を訪う。小生の事は今年は望みなしとの事なり」と記されている。多分東京大学での講義のことであろう。この学期から初めて講師になって哲学の講義を受け持ったのは紀平氏であった。わたくしたちは新入生と・・・ 和辻哲郎 「初めて西田幾多郎の名を聞いたころ」
出典:青空文庫