・・・やがて、冤を雪ぐ事が出来たおかげでまた召還され、中書令になり、燕国公に封ぜられましたが、その時はもういい年だったかと思います。子が五人に、孫が何十人とありましたから。」「それから、どうしました。」「死にました。確か八十を越していたよ・・・ 芥川竜之介 「黄粱夢」
・・・殊に女は赤子の口へ乏しい乳を注ぐ度に、必ず東京を立ち退いた晩がはっきりと思い出されたそうです。しかし店は忙しい。子供も日に増し大きくなる。銀行にも多少は預金が出来た。――と云うような始末でしたから、ともかくも夫婦は久しぶりに、幸福な家庭の生・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・ 今度は、がばがばと手酌で注ぐ。「ほほほほ、そのせいだか、精進男で、慈姑の焼いたのが大好きで、よく内へ来て頬張ったんだって……お母さんたら。」「ああ、情ない。慈姑とは何事です。おなじ発心をしたにしても、これが鰌だと引導を渡す処だ・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・かぎろいの春の光、見るから暖かき田圃のおちこち、二人三人組をなして耕すもの幾組、麦冊をきるもの菜種に肥を注ぐもの、田園ようやく多事の時である。近き畑の桃の花、垣根の端の梨の花、昨夜の風に散ったものか、苗代の囲りには花びらの小紋が浮いている。・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・立たなくなった、脾骨の見えるような馬を屠殺するために、連れて行くのを往来などで遊んでいて見た時、飼主の無情より捨てられて、宿無しとなった毛の汚れた犬が、犬殺しに捕えられた時、子供等が、これ等の冷血漢に注ぐ憎悪の瞳と、憤激の罵声こそ、人間の閃・・・ 小川未明 「天を怖れよ」
・・・近代小説という大海に注ぐには、心境小説的という小河は、一度主流の中へ吸い込まれてしまう必要があるのだ。例えば志賀直哉の小説は、小説の要素としての完成を示したかも知れないが、小説の可能性は展開しなかった。このことは、小説というものについて、こ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・紺屋の白袴どころでなく、これでは柳吉の遊びに油を注ぐために商売をしているようなものだと、蝶子はだんだん後悔した。えらい商売を始めたものやと思っているうちに、酒屋への支払いなども滞り勝ちになり、結局、やめるに若かずと、その旨柳吉に言うと、柳吉・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・自分は小川の海に注ぐ汀に立って波に砕くる白銀の光を眺めていると、どこからともなく尺八の音が微かに聞えたので、あたりを見廻わすと、笛の音は西の方、ほど近いところ、漁船の多く曳き上げてあるあたりから起るのである。 近づいて見ると、はたして一・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・谷間には沼に注ぐ河があって、それが凍っているようだった。そして、川は、沼に入り、それから沼を出て下の方へ流れているらしかった。 下って行く途中、ひょいと、二人の足下から、大きな兎がとび出した。二人は思わず、銃を持ち直して発射した。兎は、・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・男はこれに構わず、膳の上に散りし削たる鰹節を鍋の中に摘み込んで猪口を手にす。注ぐ、呑む。「いいかエ。「素敵だッ、やんねえ。 女も手酌で、きゅうと遣って、その後徳利を膳に置く。男は愉快気に重ねて、「ああ、いい酒だ、サルチルサン・・・ 幸田露伴 「貧乏」
出典:青空文庫