・・・ こう呟いた遠藤は、その紙切れを、拾い上げながらそっと隠した懐中電燈を出して、まん円な光に照らして見ました。すると果して紙切れの上には、妙子が書いたのに違いない、消えそうな鉛筆の跡があります。「遠藤サン。コノ家ノオ婆サンハ、恐シ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・彼はそれを聞きすましてそっと厠に立った。縁板が蹠に吸いつくかと思われるように寒い晩になっていた。高い腰の上は透明なガラス張りになっている雨戸から空をすかして見ると、ちょっと指先に触れただけでガラス板が音をたてて壊れ落ちそうに冴え切っていた。・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ と軽くいって、気をかえて身を起した、女房は張板をそっと撫で、「慾張ったから乾き切らない。」「何、姉さんが泣くからだ、」 と唐突にいわれたので、急に胸がせまったらしい。「ああ、」 と片袖を目にあてたが、はッとした風で・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・下女のおはまがそっと横目に見てくすっと笑ってる。「このあまっこめ、早く飯をくわせる工夫でもしろ……」「稲刈りにもまれて、からだが痛いからって、わしおこったってしようがないや、ハハハハハハ」「ばかア手前に用はねい……」 省作は・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 雲は、だれにも気づかれないように、そっと空から下へ降りてきました。「フットボールさん、お気の毒です。私は、なんでもよく知っています。あなたほど、やさしい正直ないい方はありません。それだのに、毎日、ひどいめにおあいなれされています。・・・ 小川未明 「あるまりの一生」
・・・私は昨日からの餒じさが、目を覚ますとともに堪えがたく感じてきて、起き上る力もない。そっと仰向きに寝たまま、何を考える精もなく、ただ目ばかりパチクリ動かしていた。 見るともなく見ると、昨夜想像したよりもいっそうあたりは穢ない。天井も張らぬ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・縄屑やゴミは燃料になるので、土がまじらぬように、そっと掃かないと叱られる。旦那は藁一筋のことにでも目の変るような人だった。掃除が終っても、すぐごはんにならず、使いに走らされる。朝ごはんの前に使いに遣ると、使いが早いというのです。その代り使い・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 自分はクルリと寝返りを打ったが、そっと口の中で苦笑を噛み潰した。 六円いくら――それはある雑誌に自分が談話をしたお礼として昨日二十円届けられた、その金だった。それが自分の二月じゅうの全収入……こればかしの金でどう使いようもないと思・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・衣を脱ぎすてて心地よげに水を踏み、ほんに砂粒まで数えらるるようなと、海近く育ちて水に慣れたれば何のこわいこともなく沖の方へずんずんと乳の辺りまで出ずるを吉次は見て懐に入れし鼈甲の櫛二板紙に包んだままをそっと袂に入れ換えて手早く衣服を脱ぎ、そ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 彼女はびく/\しながら、まだ反物を風呂敷から出してはいない。そっとしのび足で店に這入って、片隅の小僧が居る方へ行き、他人が見ている柄を傍から見る。見ているようにしながら、なるべく目立たぬように、番頭に金を払う機会が来るのに注意している・・・ 黒島伝治 「窃む女」
出典:青空文庫