・・・ こう言いながら長十郎は忠利の足をそっと持ち上げて、自分の額に押し当てて戴いた。目には涙が一ぱい浮かんでいた。「それはいかんぞよ」こう言って忠利は今まで長十郎と顔を見合わせていたのに、半分寝返りをするように脇を向いた。「どうぞそ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ちょうどそっと手をさすってくれたようでしたわ。真っ赤な、ごつごつした手でしたのに、脣が障ったようでしたわ。そうでなけりゃ心の臓が障ったようでしたわ。」「わかってよ」と、母は小声で云って、そのまま縫物をしていた。 その後二人はこの時の・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ あるとき、彼は低い声でそっと妻に訊ねてみた。「お前は、死ぬのが、ちょっとも怖くはないのかね。」「ええ。」と妻は答えた。「お前は、もう生きたいとは、ちょっとも思わないのかね。」「あたし、死にたい。」「うむ。」と彼は頷・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・ フィンクはそっと立ち上がった。長椅子に音をさせないように立ち上がった。そして探りながら廊下の戸の方へ行った。 用心して戸口を出て跡を締めた。 それから、跡を追っ掛けて来るものでもあるように、燈の光のぼんやり差している廊下を、寐・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫