・・・娘の白い頤の少しばかり動くのを、甘味そうに、屏風巌に附着いて見ているうちに、運転手の奴が、その巌の端へ来て立って、沖を眺めて、腰に手をつけ、気取って反るでしゅ。見つけられまい、と背後をすり抜ける出合がしら、錠の浜というほど狭い砂浜、娘等四人・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 塩どころじゃない、百日紅の樹を前にした、社務所と別な住居から、よちよち、臀を横に振って、肥った色白な大円髷が、夢中で駈けて来て、一子の水垢離を留めようとして、身を楯に逸るのを、仰向けに、ドンと蹴倒いて、「汚れものが、退りおれ。――・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ と一口がぶりと遣って、悵然として仰反るばかりに星を仰ぎ、頭髪を、ふらりと掉って、ぶらぶらと地へ吐き、立直ると胸を張って、これも白衣の上衣兜から、綺麗な手巾を出して、口のまわりを拭いて、ト恍惚とする。「爽かに清き事、」 と黄色い・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 我に反るようになってから、その娘の言うのには、現の中ながらどうかして病が復したいと、かねて信心をする湯島の天神様へ日参をした、その最初の日から、自分が上がろうという、あの男坂の中程に廁で見た穢ない婆が、掴み附きそうにして控えているので・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ というままに、頸の手拭が真額でピンと反ると、棒をハタと投げ、ずかと諸手を墓にかけた。袖の撓うを胸へ取った、前抱きにぬっと立ち、腰を張って土手を下りた。この方が掛り勝手がいいらしい。巌路へ踏みはだかるように足を拡げ、タタと総身に動揺を加・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 或とき彼は、自分の顔を剃る理髪人が、「おれはあの暴君の喉へ毎朝髪剃りをあてるのだぞ。」と言って、人に威張ったという話をきき、すっかり気味をわるくしてその理髪人を死刑にしてしまいました。そして、それからというものは、もう理髪人をかか・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・風呂へ入って、悠々と日本剃刀で髯を剃るんだ。傷一つつけたことが無い。俺の髯まで、時々剃られるんだ。それで帰って来たら、又一仕事だ。落ちついたもんだよ。」 これも亦、嘘であります。毎晩、私が黙って居ても、夕食のお膳に大きい二合徳利がつけて・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ このごろ私は、毎朝かならず鬚を剃る。歯も綺麗に磨く。足の爪も、手の爪も、ちゃんと切っている。毎日、風呂へはいって、髪を洗い、耳の中も、よく掃除して置く。鼻毛なんかは、一分も伸ばさぬ。眼の少し疲れた時には、眼薬を一滴、眼の中に落して、潤・・・ 太宰治 「新郎」
・・・何千回、何万回という経験が、この老人に鏡なしで手さぐりで顔の鬚をらくらくと剃ることを教えたのだ。こういう具合の経験の堆積には、私たち、逆立ちしたって負けである。そう思って、以後、気をつけていると、私の家主の六十有余の爺もまた、なんでもものを・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・かつて筆者が不精で顋鬚を剃るのを怠っているのを見付けた時「あごひげなんか延ばして大家になっちゃ駄目だぞ」と云った事を記憶する。この辛辣にして愉快なる三十棒の響きは今にして筆者の耳に新たなるものがある。ちなみに君は生涯髭を蓄えず頭も五分刈であ・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
出典:青空文庫