一 ある春の午過ぎです。白と云う犬は土を嗅ぎ嗅ぎ、静かな往来を歩いていました。狭い往来の両側にはずっと芽をふいた生垣が続き、そのまた生垣の間にはちらほら桜なども咲いています。白は生垣に沿いながら、ふとある横町へ曲りました。が、そ・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・僕は電車の線路に沿い、何度もタクシイを往復させた後、とうとうあきらめておりることにした。 僕はやっとその横町を見つけ、ぬかるみの多い道を曲って行った。するといつか道を間違え、青山斎場の前へ出てしまった。それはかれこれ十年前にあった夏目先・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ペンキ塗りの校舎に沿いながら、もう一度庭を向うへ抜けると、海に面する運動場へ出た。土の赤いテニス・コオトには武官教官が何人か、熱心に勝負を争っている。コオトの上の空間は絶えず何かを破裂させる。同時にネットの右や左へ薄白い直線を迸らせる。あれ・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・何とまあ孩児の痛ましくさかぶぞい。じゃまあおやすみ」 彼れは器用に小腰をかがめて古い手提鞄と帽子とを取上げた。裾をからげて砲兵の古靴をはいている様子は小作人というよりも雑穀屋の鞘取りだった。 戸を開けて外に出ると事務所のボンボン時計・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・市街を離れた川沿いの一つ家はけし飛ぶ程揺れ動いて、窓硝子に吹きつけられた粉雪は、さらぬだに綿雲に閉じられた陽の光を二重に遮って、夜の暗さがいつまでも部屋から退かなかった。電燈の消えた薄暗い中で、白いものに包まれたお前たちの母上は、夢心地に呻・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・この川はたいそうきれいな川で西岸には古いお城があったり葡萄の畑があったりして、川ぞいにはおりしも夏ですから葦が青々とすずしくしげっていました。 燕はおもしろくってたまりません。まるでみなで鬼ごっこをするようにかけちがったりすりぬけたり葦・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・「これ、この合羽占地茸はな、野郎の鼻毛が伸びたのじゃぞいな。」 戻道。橋で、ぐるりと私たちを取巻いたのは、あまのじゃくを訛ったか、「じゃあま。」と言い、「おんじゃ。」と称え、「阿婆。」と呼ばるる、浜方屈竟の阿婆摺媽々。町を一なめにす・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
一 このもの語の起った土地は、清きと、美しきと、二筋の大川、市の両端を流れ、真中央に城の天守なお高く聳え、森黒く、濠蒼く、国境の山岳は重畳として、湖を包み、海に沿い、橋と、坂と、辻の柳、甍の浪の町を抱い・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 途中では、遥に海ぞいを小さく行く、自動車が鼠の馳るように見えて、岬にかくれた。 山藤が紫に、椿が抱いた、群青の巌の聳えたのに、純白な石の扉の、まだ新しいのが、ひたと鎖されて、緋の椿の、落ちたのではない、優い花が幾組か祠に供えてあっ・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ありがたい仏様が見えるぞい。」「ああい、見えなくなった目でも、死ねば仏様が見られるかね。」「おお、見られるとも、のう。ありがたや阿弥陀様。おありがたや親鸞様も、おありがたや蓮如様も、それ、この杖に蓮華の花が咲いたように、光って輝いて・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
出典:青空文庫