・・・眺望のこれと指して云うべきも無けれど、かの市より此地まであるいは海浜に沿いあるいは田圃を過ぐる路の興も無きにはあらず、空気殊に良好なる心地して自然と愉快を感ず。林長館といえるに宿りしが客あしらいも軽薄ならで、いと頼もしく思いたり。 三十・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・中川沿岸も今でこそ各種の工場の煙突や建物なども見え、人の往来も繁く人家も多くなっているが、その時分は隅田川沿いの寺島や隅田の村でさえさほどに賑やかではなくて、長閑な別荘地的の光景を存していたのだから、まして中川沿い、しかも平井橋から上の、奥・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・「みんな、行って来るぞい」その言葉を養子夫婦にも、奉公人一同にも残して置いて来た。彼女の真意では、しばらく蜂谷の医院に養生した上で、是非とも東京の空まではとこころざしていた。東京には長いこと彼女の見ない弟達が居たから。 蜂谷の医院は中央・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ と、「まあ誰ぞいの」と機を織っていた女が甲走った声を立てる。藁の男が入口に立ち塞って、自分を見て笑いながら、じりじりとあとしざりをして、背中の藁を中へ押しこめているのである。「暗いわいの」と女がいうと、「ふふふ」と男は笑っ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・けれども、川沿いの村に住んでいる家々の一人のように、自分の務めをいそしんでいました。両岸には人家や樹陰の深い堤があるので、川の女神は、女王の玉座から踏み出しては家毎の花園の守神となり、自分のことを忘れて、軽い陽気な足どりで、不断の潤いを、四・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・この辺の昔のままの荒川沿いの景色がこうしたモダーンな道路をドライヴしながら見ると、昔とはまた全く別な景色に見えるから妙である。道路が魔法師の杖のように自然を変化させるのである。 志木の近くの水門で釣をしている人がある。運転手が橋の上で車・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・ 先月からの雨に荒川があふれたと見えて、川沿いの草木はみんな泥水をかむったままに干上がって一様に情けない灰色をしていた。全色盲の見た自然はあるいはこんなものだろうかという気がして不愉快であった。 高圧電線の支柱の所まで来ると、川から・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・表の河沿いの道路に面した格子窓には風鈴が吊されて夜風に涼しい音を立てていたように思う。この平凡な団欒の光景が焼付いたように自分の頭に沁み込んでいるのはどういう訳かと考えてみる。父の長い留守の間に祖母と母と三人きりで割合に広い屋敷の中でのつつ・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・これに反して新道沿いに新しく出来た当世風の二階家などで大損害を受けているらしいのがいくつも見られた。松本附近である神社の周囲を取りかこんでいるはずの樹木の南側だけが欠けている。そうして多分そのためであろう、神殿の屋根がだいぶ風にいたんでいる・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
・・・ 私たちは河原ぞいの道路をあるいていた。河原も道路も蒼白い月影を浴びて、真白に輝いていた。対岸の黒い松原蔭に、灯影がちらほら見えた。道路の傍には松の生い茂った崖が際限もなく続いていた。そしてその裾に深い叢があった。月見草がさいていた。・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫