・・・ それにしても毎日毎夕類型的な新聞記事ばかりを読み、不正確な報道ばかりに眼をさらしていたら、人間の頭脳は次第に変質退化して行くのではないかと気づかわれる。昔のギリシア人やローマ人はしあわせなことに新聞というものをもたなくて、そのかわりに・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・立派な大廈高楼はどうも気楽そうに思われない。頼まれてもそういう所に住む気にはなれそうもない。しかしこの平板な野の森陰の小屋に日当たりのいい縁側なりヴェランダがあってそこに一年のうちの選ばれた数日を過ごすのはそんなに悪くはなさそうに思われた。・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ 入れ歯を作ってもらってから長くなると歯ぐきが次第に退化して来るためか、どうも接触が密でなくなる。その結果は上あごの入れ歯がややもすると脱落しやすくなる。自分の場合には、妙なことには何か少し改まって物を言おうとすると自然にそれがたれ落ち・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ある辰年の冬ある地方がひどく乾燥でそのために大火が多かったとして、次の辰年にも同様な乾燥期が来るということには、単なる偶然以外に若干の気候週期的な蓋然率が期待されないこともない。 気候の変化が人間の生理にも若干の影響があるかもしれないと・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・この日は二科会を見てから日本橋辺へ出て昼飯を食うつもりで出掛けたのであったが、あの地震を体験し下谷の方から吹上げて来る土埃りの臭を嗅いで大火を予想し東照宮の石燈籠のあの象棋倒しを眼前に見ても、それでもまだ昼飯のプログラムは帳消しにならずその・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・メートルとキログラムの副原器を収めた小屋の木造の屋根が燃えているのを三人掛りで消していたが耐火構造の室内は大丈夫と思われた。それにしても屋上にこんな燃草をわざわざ載せたのは愚かな設計であった。物理教室の窓枠の一つに飛火が付いて燃えかけたのを・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・あの恐ろしい函館の大火や近くは北陸地方の水害の記憶がまだなまなましいうちに、さらに九月二十一日の近畿地方大風水害が突発して、その損害は容易に評価のできないほど甚大なものであるように見える。国際的のいわゆる「非常時」は、少なくも現在においては・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・程が谷近くなれば近き頃の横浜の大火乗客の話柄を賑わす。これより急行となりたれば神奈川鶴見などは止らず。夕陽海に沈んで煙波杳たる品川の湾に七砲台朧なり。何の祝宴か磯辺の水楼に紅燈山形につるして絃歌湧き、沖に上ぐる花火夕闇の空に声なし。洲崎の灯・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・例えばある年の夏は江戸時代の大火の記録をその時代の地図と較べながら焼失区域図を作って過ごした。仕事はある意味では器械的であるが一つ一つの記録を読んで行くうちに昔の江戸の生活が、小説や歴史の書物で見るよりも遥かに如実に窺われて実に面白かった。・・・ 寺田寅彦 「夏」
昭和九年三月二十一日の夕から翌朝へかけて函館市に大火があって二万数千戸を焼き払い二千人に近い死者を生じた。実に珍しい大火である。そうしてこれが昭和九年の大日本の都市に起こったということが実にいっそう珍しいことなのである。・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
出典:青空文庫